人の姿の上に、宗教の姿は現れる

【住職の日記】
先日、お寺の御法座が終わり、御門徒の方々と雑談をさせていただく中で、自然と宗教についてのお話になりました。おおよそ、次のような会話でした。

A「自分は、家が浄土真宗でしたから、自分も浄土真宗の門徒になるのが当たり前に思っていましたが、世の中には、色んな宗教に入る人がいるものですね。自分の親戚の中にも、別の宗教に入っている人がいるんですが、その人の話を聞いていても、なんか変だなと思ってしまうんですよね。」

住職「基本的には、自分にとって救いとなる教えを選べばいいと思います。でも、宗教と呼ばれているものの中には、危険なものもありますから、冷静な目を持つことも大切ですね。子どもの頃からの環境は、とても大事だと思います。宗教について、これはどこか変だなと感じる感覚が身についているかどうかですね。」

B「なるほど、それは、自分もよく分かるような気がします。自分のお婆ちゃんは、お寺が大好きな人で、よくお仏壇に手を合わせてお念仏することを教えられましたが、特別な感じではなく、いつも自然な感じの人でした。よく病気が治るとか、幸せになれるとか、そういった宗教の勧誘があると、『そんなものは、治りゃせん』とケロッとしていました。今も色んな宗教の話を聞きますが、なんかおかしいなという感覚が、自分にも身についているなと思います。」

 宗教という言葉は、明治時代から使われ始めた比較的新しい日本語ですが、直訳すると「宗(むね)となる教え」という意味です。宗というのは、それによって生き、それによって死んでいけるような、自分にとって拠り所となるものという意味です。それは価値観の基準になるものです。

例えば、仏教では、「三宝」という言葉があります。三つの宝物です。三つとは、仏・法・僧のことです。あらゆる命の悲しみを我が悲しみとし、あらゆる命の幸せのために自らを犠牲にしていくような清らかな生き方をされる仏と、その仏が真心をもって生きとし生けるものに語りかけるみ教えである法、そして、その清らかな仏が語りかけるみ教えを聞いて喜び、共に大切に味わっていこうとする人達の集いである僧、この三つを宝物とするような価値観を教えるのが仏教です。そして、この価値観の中に生き死んでいく人を仏教徒というのです。仏・法・僧を宝物とするような価値観を持つ人は、自分の利益だけを貪っていくような生き方に嫌悪感を抱いていきます。逆に、人のために一生懸命になったり、他の命を愛でるような姿に共感していくようになります。争うことを嫌い、和やかな集いを好むようにもなっていきます。どんなものの中に価値を認めていくのかで、その人の前に開けてくる世界は、変わってきます。

危険な宗教というのは、危険なものの中に価値を認めていくような教えを説くものです。それは、他の命を傷つけ自らも傷つき、破滅に向かわせるような教えです。例えば、自分の欲望が満たされる状況を宝物とする価値観を教える宗教があるとします。その教えを宗とする人は、自分の欲望を満たしてくれるもの、お金や社会的な地位や名誉、健康な体などが宝物になっていきます。自分の欲望が満たされるためには、当然、邪魔になるものが出てきます。お金儲けを邪魔するもの、地位や名誉を脅かすもの、健康な体をむしばむもの、あらゆるものが敵になり、争いを好むようになるでしょう。自分の欲望が満たされることが最も大切な価値観の中では、感謝の心は芽生えてきません。食事をしても、いただく命を命とは見ません。自分に美味しい思いをさせてくれるかどうかです。美味しいものは価値のあるものであり、美味しくないものは、役に立たないものです。命が単なる自分の欲望を満たすための道具になります。道具は、壊れても代わりがききます。一つひとつ代わりのきかない命の掛け替えのなさを感受する心が喪失していきます。命を感受できなくなると、当然、自分自身の命も感受できなくなります。年老い病気がちになると、役に立たない道具として生きる意味を喪失していきます。虚しさと愚痴しか残りません。救いを説くような顔をして、破滅に向かわせるもの、これもまた宗教なのです。

人の姿の上に、宗教の姿は現れていきます。理屈は分からなくても、救いに向かわせるような教えとご縁をいただけているということは、本当にありがたいことなのです。恵まれたご縁を大切に、自らも仏法に耳を傾けていきましょう。

2019年4月1日