【住職の日記】
先日、仏教壮年会の懇親会の席で、次のような思い出話を聞かせていただきました。
「昔、私がまだ二十歳代の頃、正法寺の仏教青年会に入って、色んなご縁をいただきました。忘れられないのが、何か大きな法要がご本山であったときに、山口教区の仏教青年会で親鸞キャンペーンという活動に参加したことです。前住職や友達とスピーカーのついた車に乗って、山口県内をずっと回りました。親鸞様のことを多くの人に知ってもらおうという活動だったんですが、私達の車がゆっくりと走っていると、沿道に多くのおじいちゃんやおばあちゃんが出てこられて、私達の車に向かって合掌し礼拝をして、見送ってくださるのです。あんなに多くの人達が、自分たちに向かって合掌して礼拝くださる姿は、今でも忘れられません。」
ご本山本願寺では、令和五年に親鸞聖人ご誕生八五〇年と立教開宗八〇〇年のお慶びの大法要が計画されています。立教開宗というのは、浄土真宗というみ教えが開かれたことをいいます。おそらく、仏教壮年会の会員の方がお話しくださったご本山での大きな法要というのは、約四十五年前の親鸞聖人ご誕生八〇〇年と立教開宗七五〇年の法要のことかと思います。お話を聞かせていただいて、約四十五年前の御門徒の方々の尊いお姿に、頭が下がる思いがしたことでした。
合掌し礼拝するというのは、本来、敬いの心が姿勢として表われたものです。しかし、この敬う心というのが、今の時代、非常に分りにくくなったように思います。少し乱暴な言い方かもしれませんが、敬うとか尊ぶというのは、その対象に心を奪われ支配されると言い換えてもいいでしょう。仏様を敬う人というのは、仏様に心を奪われ、仏様に人生を支配されているような人です。それは、仏様の一つ一つの言葉に感動し、仏様が教える価値観に支配され、仏様がみそなわす世界を真実と仰いでいくような生き方が恵まれていくことです。
この敬う心を持つ生き方というのは、大変難しいことだと思います。人というのは、自分がこれまで経験してきた中で培われてきた価値観に支配され、自分が思う世界を正しいものとして生きるのが普通だからです。敬う心というのも、その普通の生き方の中で理解されていることが多いのです。例えば、京都などの観光寺院に参りますと、家内安全や商売繁盛などのお札が売られていることがあります。形として、仏様に向かい合掌し礼拝していても、家庭の平和やお金儲けを目的として礼拝しているなら、それは、仏様を敬っているのではありません。自分の家族さえ幸せであればよいことに価値を認め、自分にお金がより多く入ってくることに価値を認め、その実現のために仏様を利用しようとしているだけのことです。仏様ではなく、自分の都合を大切にしているだけです。形は敬うような姿をとっていても、自分の価値観の中で生きているだけならば、それは、仏様に見向きもしない人と何も違いはありません。合掌し礼拝する姿が尊いのは、その人が、自分の都合を捨てて、仏様の教えの言葉を敬い、仏様の心をその身に響かせているからです。
親鸞聖人のことを多くの人に知ってもらおうと、一生懸命、活動しようとしている若者に対して、合掌し礼拝しながら、その行動を尊び讃えるという姿に、浄土真宗門徒の仏教徒としての次元の深さを感じます。人は、普通、自分の都合に利益をもたらさないような人を褒めることはしません。自分の都合を満たす者を褒め、邪魔する者を貶すのが、自分の価値観に支配されている人の姿です。そこには、自分というものの殻に閉じ込められた貧しい世界しかありません。本当に素晴らしいものは、自分の価値観を超えたところにあるのではないでしょうか。自分の殻に収まりきれないようなものに触れていくとき、人は、本当に心を揺さぶられ、本当の喜びを経験していくのだと思います。
仏様を敬う生き方が恵まれている人には、本当の喜びに満ちた清らかな香りが漂うものです。その香りは、周りに仏縁を広げていきます。蓮如上人が、「一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。」とお示しされている通りです。お寺が繁盛するというのは、人とお金が集まることではありません。人の価値観を超えた仏様の言葉に生かされている本物の仏教徒が一人でも生まれることなのです。仏様を敬う日々を大切にさせていただきましょう
(令和元年9月1日)