「墓じまい」という言葉が、テレビや新聞でよく聞かれるようになって、久しくなりました。正法寺の御門徒の方々の中でも、この十年の間、毎年のように墓じまいをされる方がおられます。代々、同じ場所に定住しなくなったり、何々家を継いでいくという意識が、希薄になったことが大きいでしょう。それは、お墓だけに留まりません。代々の家とその中心に安置されてきたお仏壇も、処分の対象として考えられるようになりました。
先日も、お墓と一緒にお仏壇も処分したいというご相談がありました。お墓は、代々のお骨を正法寺の納骨堂に納めることになりました。お仏壇は、誰も住まなくなった代々の家のものを処分し、息子さん家族の新しい住居に、新しいお仏壇を迎えることになりました。お墓は、お勤めの後、業者の方がお骨を取り出し、墓石を処分してくださいます。お仏壇は、お勤めの後、ご本尊の阿弥陀如来様と両脇掛けの親鸞聖人と蓮如上人を住職がお預かりをし、礼拝の対象がなくなった空のお仏壇を業者の方が処分されます。お仏壇が処分される日、お勤めの場には、コロナ禍の中、嫁がれたご兄姉や従兄弟に当たる方々など、子どもの頃から、そのお仏壇に手を合わせてこられた方々が、たくさん集まっておられました。お勤めの合間に、所々から「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と聞こえてくるお念仏の声は、大変有り難いものでした。このお仏壇を、代々の家の方々が、本当に大切にしてこられたことが伝わるものでした。
ご本尊の阿弥陀如来様が、絵像のお軸の場合、裏地にご本山本願寺の御門主のお名前が記され、印鑑が押されています。これは、このご本尊が、正しいみ教えに基づいたものであり、礼拝の対象として間違いないことを、本願寺の御門主が証明してくださったことを表しています。この裏書きのないものは、礼拝の対象として認められていない偽物ということになります。たまに仏壇店などの業者により適当に作られた絵像が、安置されてあることがありますので、注意が必要です。このたび、お預かりした当家のご本尊の裏書きには、明治時代にご活躍された御門主のお名前と印鑑が確認できました。およそ百年以上、当家のご本尊として御安置され、家庭生活の拠り所として礼拝されてきたことになります。
そのことを当家の方々にお伝えすると、大変感慨深いお声と大変寂しいお声が混じり合っていました。数十年前には火事に遇われたことがあったそうですが、その時も、ご本尊は、当家の方々によって持ち出されて無事だったそうです。お仏壇を大切にしてこられたご先祖の思いを、改めて大切に受け止めてくださったようでした。
「本尊」という言葉は、「最も大切にすべき根本的に尊いもの」という意味です。それによって生まれたことの意味、日常の様々な価値観、死んでいくことの意味を確認していくものです。浄土真宗であれば、阿弥陀如来様が、そのご本尊です。自分に関係する人や命だけでなく、自分に関係のない人や命、また、自分にとって憎しみや怒りの対象となっていく人や命まで、あらゆる命を深く慈しみ、あらゆる命が抱える一つ一つの悲しみを深く悲しんでいく大慈悲と呼ばれる清らかな心を、この世界で最も尊いものとして仰いでいく姿が、阿弥陀如来様をご本尊とする姿です。
人間というのは、例外なく阿弥陀如来様と真反対の在り方をしています。自分の都合を満たす者は愛すべき者です。しかし、夫婦、親子の関係であっても、その人々が自分の都合を邪魔する者になれば、たちまち憎むべき者に変わります。また、自分に関係してこないその他大勢の命に対しては、無感情です。その他大勢の命が、喜ぼうが悲しもうが関係ありません。非常に冷淡です。本当の愛とは、決して変わらないものであるはずです。たとえ愛する者が、自分を苦しめるような者になっても、愛おしく慈しみ続けるのが、本当の愛でしょう。しかし、私達は、自分の愛おしい子どもであっても、反抗されると、思わず腹を立ててしまうのです。「小慈小悲もなき身にて」とは、親鸞聖人のお言葉です。大慈悲どころか身内すら本当に愛することのできない浅ましい自分だという告白です。
その浅ましい自分の姿にブレーキをかけ、何が本当に尊いものであるのかを、代々にわたって忘れず仰ぎ続けていくために御安置されたのが、各家々のお仏壇なのです。
誰も住まなくなった家にお仏壇は必要ありませんが、人が生活する場がある限り、そこにはお仏壇は必要でしょう。大慈悲を尊いものとして仰ぎ生きる中に、本当の人生の喜びが恵まれていくのです。