今年もあと一ヶ月を残すところとなりました。昨年の今頃は、一年後にコロナウイルスによって、世界中が混乱していることなど、想像もできなかったことです。人の世は、生滅変化していく不安定なものであることを、改めて教えられるところです。
先日、ある人から、こんなお話を聞かせて頂きました。ある日の夜、真っ暗な田んぼのあぜ道を、一人、懐中電灯を持って歩いていた時のことだそうです。真っ暗な中、道の前方を懐中電灯で照らして歩いていると、足下に土の塊が落ちていたそうです。道の両脇の田んぼの土が、塊になって道に落ちているのかと思い、そのまま、踏みつけて進もうとしたそうです。しかし、その時、何か違和感を感じたといいます。何気なく、前方を照らしていた懐中電灯を足下に向けると、懐中電灯の明かりの中に、大きなウシガエルが現れたといいます。声を上げて驚き、その場に立ち止まってしまったそうです。そのままウシガエルを踏みつけていたかと思うと、ぞっとして、しばらくドキドキが止まらなかったそうです。
真っ暗な闇の中で、土の塊だと信じ切っていたものが、本当は、生きたウシガエルだったというお話です。よく聞くようなお話だとはいえ、とても興味深く聞かせていただきました。
それは、親鸞聖人が、お書物のいたるところで、阿弥陀如来様のことを、光という言葉で説明されておられるからです。たとえば、『弥陀如来名号徳』というお書物には、「阿弥陀仏は智慧のひかりにておはしますなり」と、阿弥陀仏のことを、智慧の光だと説明しておられます。また、『尊号真像銘文』というお書物にも「光如来と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなり・・・」と、阿弥陀仏は、光如来ともいい、それは、思いはかることのできない不可思議な光の仏様であり、その光の仏様は、智慧のかたちであり、世界中にその光は満ちていると説明されています。
阿弥陀如来が、光の仏様だというのは、どういう意味でしょうか。仏教では、私達が抱える根本的な苦しみの原因を無明という言葉で表現しています。この無明は、自らにとって都合のよいものは、どこまでも欲しがり、逆に自らにとって都合の悪いものはなかったことにしたがる、どうしようもない盲目的な身勝手さのことをいいます。これは、明るさが無い闇の中にいるようなもので、無明と表現されるのです。
闇の中では、生きたウシガエルも命のない土の塊に見えます。闇の中というのは、物の本質、本当の姿が見えないのです。また、本質、本当の姿でないにも関わらず、自分が見えている物を、本当の姿だと思い込んでいる状況でもあります。どうしようもない盲目的な身勝手さを抱える人間が受け止めていく世界は、まるで闇の中で生きているようなものだというのです。
私達は、本物を見ていません。たとえば、『仏説阿弥陀経』に「八功徳水」という言葉が説かれています。これは、仏様が受け止めておられる水の有様のことです。八という数字は、無量とか無限という意味を表しています。一滴の水の中に、無量の功徳、限りない輝きを仏様は見ておられるということです。それが、本当の水の姿だというのです。私達は、一滴の水どころか、大量に出る蛇口の水でさえ、当たり前のものとして見ています。無量の功徳など微塵も見えず、感動もありません。また、空から雨が降ってこようものなら、悪い天気だと言って愚痴をこぼし、腹を立てることさえあります。そこに見えているのは、ただの液体であり、時には、自分の都合を邪魔する厄介なものです。本物が見えない闇の中にいるというのは、実に不幸なことです。
阿弥陀如来が、光の仏様だというのは、盲目的な身勝手さによって暗い闇の中に生きる私に、本当のことに気づかせ、物の本質を受け止めることのできる智慧を恵んでくださるからです。仏様の光は、言葉です。本物の輝きを受け止めている清らかな言葉が、盲目的な闇の中にいる私の心を、感受性を、豊かに育ててくださるのです。仏様のお言葉を聞かせていただく、御法座でのお聴聞が、何よりも大切だと言われるのは、このためです。
仏様が受け止め見ておられる本物の世界には、苦しみがありません。全てが清らかに輝き、愛と慈しみで満たされています。その世界を、お浄土というのです。そして、私は、そのお浄土に、必ず生まれていくことが願われてあるのです。生まれていくのは、この命終えてからです。しかし、その光に遇うのは、今なのです。無明を抱える闇の中にも、仏様の光をいただき、感動と喜びを味わえる日々を送りたいものです。