明けましておめでとうございます。今年も、お念仏に包まれる中に、一日一日を丁寧にいただいて参りましょう。
先日、『基礎からはじめる真宗講座』にお参りくださった方から、こんな感想を聞かせて頂きました。
「ご近所の方に誘われて、初めてお参りさせてもらいました。お寺の法座にお参りしたのは、子どもの時以来、何十年ぶりかです。子どもの時は、母に連れてこられて、よく一緒にお参りしていました。あの頃は、まだ火事になる前の本堂で、大きな柱が四本、本堂の中にあったのを覚えています。でも、法座の雰囲気は、あの頃と変わっていませんねぇ。すごく懐かしくて、温かい気持ちにさせてもらいました。」
法座の雰囲気が、あの頃と変わっていないという感想の中に、お寺が続いてきたことの大切な意味を改めて聞かせていただいたことでした。
法座というのは、有識者の講演を聞かせていただく講座とは、本来、まったく異なるものです。浄土真宗のお寺は、この法座が開かれるために建立されています。建立されてから、そこに集い仏法を聞く人々も、仏法を取り次ぐ人々も、年月が過ぎると共に、当然変わっていきます。五十年前の法座と現在の法座では、集う人々の面々もお話くださる御講師の面々も違います。しかも、本堂自体も火災で焼失し、現在の本堂は昔のものとは違っているのです。それでも、法座の雰囲気は変わらないのです。
お寺という場所は、一つには、変わらないものに出遇う場所だと言えると思います。この世界に変わらないものはありません。あらゆるものは移り変わるという諸行無常の教説は、仏教の根幹を成すものです。その諸行無常という理の中にあって、変わらないものを真実というのです。たとえば、このあらゆるものは移り変わるという諸行無常の理は、時間の経過と共に変わったりしません。それは、本当のことだからです。どれほど時代が変わり、人々の価値観が変わっても、あらゆるものが移り変わるという諸行無常の理は、変わることなく真実でありつづけるでしょう。
一方で、私達人間境涯に生きる者から紡ぎ出される言葉や価値観は、移り変わり消えていくものばかりです。この人間境涯で、最も清らかな言葉は、愛の言葉だと言われます。しかし、変わらずに愛し続けることは、至難の業です。人間境涯で最も純粋な愛の代表は、子どもを愛する親の愛情でしょう。本当に愛情深い親は、自らの身を削って、子どもの幸せを純粋に願うものです。しかし、それでも、ふとしたとき、たとえば、子どもに反抗されたときなど、図らずも愛する我が子に腹を立ててしまうものです。また、人の親は、諸行無常の中で年老い、命終えていきます。年老い、脳が老化すると、愛する我が子の顔さえ忘れてしまうこともあります。人間境涯は、まさしく諸行無常です。どれほど純粋な愛情であっても、移り変わり消えていってしまうのです。
移り変わり消えていくものの中に、本当の拠り所と言えるものはありません。お釈迦様が2500年前に説かれた内容が、今も変わらず響き続けているのは、それが変わらない真実だからです。お寺で聞かせていただくのは、移り変わってゆく人の言葉ではありません。けっして変わることのない真実、私の本当の拠り所となるものを聞かせていただくのです。
お寺の法座は、どれほど年月が過ぎ、そこに集う人々の面々が変わっても、そこで語られる真実とその真実に出遇い喜ばせていただく温もりは変わりません。過去も現在も、同じものを聞き、同じものを喜ばせていただいているのです。仏教というのは、やはり人が伝えるものです。経典やそれを伝える解説書があれば伝わるものではありません。それを聞き喜び、人生の糧として生き抜かれた多くの人々の変わらない姿が、今に至るまで、脈々と仏教を遺してくださったのです。
いつまでも変わらないものが語られ、変わらない人々の雰囲気があり、変わらない空気に包まれている、そんな空間がお寺の法座です。突然、世界中を襲った未曾有のコロナ禍の中で、人々の価値観やものの考え方が大きく変わろうとしています。人の世は、善が悪に変わり、愛が憎しみに変わります。その中にあって、変わることのない清らかな真実が響き続けるお寺の法座は、ある意味、この世の安全地帯なのかもしれません。
今年も、激動の時代が続くことでしょう。新年を迎え、改めて、お寺の法座の空間に座らせていただくことの大切さを味わってまいりましょう。