お寺にお参りできている身の尊さ

先日の春季彼岸会でのことでした。夜の法座に、普段は見かけない二十歳代前半と思われる男性の方が、座っておられました。法座が始まる前、側に近づき、「失礼ですが、どなた様ですか?」とお尋ねをさせていただきました。すると、その方は、次のように答えてくださいました。

「自分の知り合いの知り合いに、ここの保育園関係の方がおられて、その知り合いから、ここのお寺で、お話が聞けるということを聞かせていただいて、来てみたんです。」

重ねてお尋ねをしました。

「保育園関係の知り合いというのは、誰ですか?」
「自分は、直接、その方とは知り合いではないので、名前も顔も知らないのです。ただ、人づてに、ここのお寺でお話が聞けると聞いただけなんです。」
「この近くにお住まいなんですか?」
「少し離れたところから来ました。」
「仏教に、興味があるんですか?」
「はい、、、、少しだけ。」

お念珠も聖典も、お持ちでなかったので、お寺のものをお貸ししました。お念珠の持ち方も、手の合わせ方もまったく分からないご様子でした。「お念珠は、左手に持つんですよ。」「手を合わせるのは、胸の前でこのようにして、お念珠は、両手にこのようにして掛けるんですよ。」などなど、基本的なことを一つ一つお教えいたしました。それを一つ一つ、とても素直に聞いてくださいました。その後の『讃仏偈』のお勤めも、分からないなりに、一緒にお勤めくださり、途中で帰ることなく、最後まで仏様のお話を聞いてくださいました。法座が終わった後、「またよかったら、お越しくださいね。」とお声をおかけすると、とても和やかな笑顔で「はい」とお答えくださいました。

御門徒の方であっても、初めてお寺にお参りするときは、緊張するものです。なかなか最初の一歩が踏み出しにくいものです。それを、まったく知らないお寺という異空間に、たった一人で飛び込んでこられるというのは、すごいことです。よっぽど不思議なご縁が働いたのでしょう。

浄土真宗のお寺は、本来、誰もがお参りしやすい場所ではありません。なぜなら、私達が当たり前に受け入れている世間の価値観が否定される場所だからです。一方で、同じお寺でも、お守りを売っていたり、仏様が願い事を叶えてくれることを謳うお寺は、たくさんの人がお参りしています。それは、世間の価値観がそのまま肯定される場所だからです。世間の価値観というのは、自分に役立つ都合のいいものを貪り愛し、反対に都合の悪いものを憎み拒絶する性分が基準となる価値観です。健康、富、地位、家庭円満、病気平癒など、自分に都合のいいものを与え、都合の悪いものから守ってくれる場所には、誰でもお参りしやすいのです。しかし、浄土真宗のお寺には、お守りもおみくじもありません。私のわがままを聞いてくれる仏様もいらっしゃいません。そのような場所に、少ないながらも、人がお参りするというのは、実に不思議なことです。

誰もが幸せを求めています。しかし、自分の願いのままに、あらゆる事が実現できるほど、人間は恵まれた存在ではありません。また、世の中が、そんな甘いものではないことは、誰もが思い知っているはずです。それでも、人間は、仏様の力を利用してでも、自分のわがままな願いを実現しようとします。そして、また傷つき、また自己中心の妄想を拡張し、それを繰り返していくのです。幸せを求めながら、不幸せな道に落ちていく、この切なく弱い存在を大悲されるのが、本当の仏様のお働きです。浄土真宗のお寺は、世間の価値観に振り回され、傷つき行き詰まった方が、お参りされる場所です。自分に役立つ都合のいいものばかりを求めにいく場所ではなく、そのような自分の姿を省み、人生の方向転換をしていく場所なのです。

親鸞聖人は、自分のわがままが満たされる天国とよばれるような自己中心の妄想によって作り出される世界ではなく、その醜い妄想やそれを生み出していく煩悩から私達を解放してくれる浄土という仏様の大悲が描きだしてく世界に向かう人生の大切さを教えてくださいました。お浄土は、自己中心の妄想である愛と憎しみを超えていく世界です。愛する者も憎たらしい者も、同じように慈しまれていく世界に、私達は、生まれていくのです。

人間境涯に命をいただきながら、仏様の境涯に生まれていくような人生が恵まれていくというのは、本当にまれで尊いことです。浄土真宗のお寺にお参りできている身の尊さを、お互いに喜ばせていただきましょう。

2021年4月1日