「五濁悪世」

先日、テレビを見ていると、北海道の札幌市で、商業施設や住宅が建ち並ぶ市街地に、クマが出没したというニュースが報道されていました。四人の人達が襲われ、重軽傷を負ったそうです。テレビの映像には、大きなクマが、巨体を揺らしながら、必死にフェンスによじ登る姿が映っていました。そのニュースで使われていた表現に、気になるものがありました。

「クマは午前11時すぎに同じ東区内で猟友会によって駆除されました。」

いかがでしょうか。「駆除」という言葉に、何か引っかかるものを感じないでしょうか。「駆除」という言葉を、国語辞典で調べますと、「害を与えるものを追い払う」とあります。しかし、追い払うことと命を殺めることは、必ずしも同じ意味ではありません。「クマは駆除されました」という表現は、「邪魔者は追い払われました」という意味のみが強調され、「クマの命を殺めざるをえなかった」という人間の心の痛みは、隠されています。もっと言えば、ここには、「邪魔者は殺されても仕方がない」という、人間の邪見が露わになっている感じがします。

ご法事の時に、御門徒の方にもご一緒に拝読していただく『仏説阿弥陀経』には、「五濁悪世」というお言葉が説かれています。五濁悪世とは、劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁という人間世界を覆う五つの濁り(にごり)を説いたものです。仏様の眼から見れば、この世界は、決して清らかではなく濁りきっているというのです。

劫濁とは、時代そのものが濁っているということです。その元にあるのが、見濁です。その時代に生きる人々の見解が濁っているのです。自己中心的な見解によって自己も環境も、すべてを濁らせていきます。自分たちさえよかったらよいという考え方が、社会とその時代を濁らせていくのです。煩悩濁とは、人の行動が濁っているということです。自分に都合のよいものを飽きることなく求め、自分に都合の悪いものを怒りをもって排除しようとする、そのような我欲に染まった誤った行動が、自分も人も環境も破壊していくのです。このような濁った見解と行動によって、生き物全体が劣化していく状況を衆生濁といいます。そして、命濁とは、命そのものの尊さを感受する心が失われ、命の価値が粗末になっていくことをいうのです。

まさしく、私達が生きる人間社会の状況を、的確に説き表わしているものだといえるでしょう。2500年前のインドも現代の日本も、人間という迷える存在が作り出していく社会は、何も変わらないのです。お経というのは、じっくり拝読させていただくと、おとぎ話のような非現実的なことではなく、ドキッとさせられるような本当のことが書かれてあることがよく分かります。しかしそれは、お経に書かれてあるから、本当なのではありません。本当のことだから、お経に書かれてあるのです。お釈迦様のお言葉というのは、五濁悪世の中にあって、その濁りに決して染まることなく、清らかな真実に目覚めていかれた仏様のお言葉です。それは、真実に目覚めた方のお言葉であると同時に、五濁悪世の中で濁りに染まっていくものを、真実に目覚めさせるお言葉でもあるのです。

今でも仏教の教えに基づいた国作りをしている国家があります。ブータンという国です。ブータンに旅行に行った方が、「初めてハエに生まれ変わってもいいと思った」という感想を漏らされたことを、ある僧侶の方から聞かせていただいたことがあります。ハエに生まれ変わっても幸せと思えるほど、ハエの命も敬われている社会があるということなのでしょう。おそらくブータンでは、ハエを殺める行為に対しても「駆除」という言葉は、けっして使うことはないはずです。

濁った者同士の中にいる者は、自分が濁っているということに気づくことはありません。濁りに気づくのは、濁っていない清らかなものに出会うこと以外にはないのです。その意味では、お釈迦様のお言葉が記されたお経というのは、自分の濁った姿を映し出す鏡のようなものです。清らかな綺麗な者の前で、自分が汚れ濁っていれば、必ず恥ずかしさが生まれます。そして、恥ずかしさが生まれれば、自分の身を正していこうとするはずなのです。ここに、仏教徒としての厳格な生き方が恵まれていくのでしょう。

命に対して「駆除」や「殺処分」というような冷酷な言葉が公に使われ、何も感じなくなっている社会というのは、鬼が作りだす地獄と同じです。五濁悪世の中に届いてくださる清らかな言葉に耳を傾け、真実に気づかされていく毎日を、大切に歩ませていただきたいものです。

2021年6月30日