死に対する味わい

先日、百ヶ日のお勤めにお参りさせていただいた時のことです。普段、百ヶ日のお勤めは、ご家族だけで、時間もわずかということもあり、院代が一人でお参りさせていただくことが多いのですが、その日は、たまたま私が一人お参りさせていただきました。もう満中陰から一月以上経ち、ご家族の方々も幾分落ち着いておられる頃だろうという心持ちで参らせていただいたのです。
ところが、お仏間に上がらせていただき、お勤め前にお茶をいただこうとしたとき、故人の娘さんから思いがけない質問をいただきました。

「母はもう阿弥陀如来様やお釈迦様のところに無事辿り着いて、お弟子になっているんでしょうか?」

私は、眼に涙をいっぱいに溜めた突然の質問に思わず口ごもってしまいました。そして、さらに涙を溜めて次のように質問されたのです。

「亡くなった人の霊は、私達の周りに留まっているのでしょうか?」

娘として、母の幸せをどこまでも切実に願い、また、いつまでも自分の側に母を感じていたいという強い想いが痛切に私の胸に響いてきました。

浄土真宗は、阿弥陀如来の働きによりお浄土に往生し、お釈迦様や阿弥陀如来様と同じ悟りの世界をこの身にいただくみ教えです。ここで、「お母さんはお浄土に往生され、仏様となっていつもお側におられますよ」と答えれば、娘さんの心も幾分癒されたのかも分かりません。しかし、私の返した答えは、

「亡くなった方が、どのような形になられたのかは、私には分かりません。それを確かめる術を私は持っていません。ただ、死は他人事ではありません。故人の死を尊い仏縁にさせていただくことで、死に対する味わいが変わってくると思います」

というものでした。僧侶として、どのように答えるのが正しいのか、戸惑いを感じながらも、正直に自分の味わいを述べました。

世間の人々は、死や死後の世界について様々な話をします。霊といったものもその一つでしょう。しかし、死んだことのない人が、死や死後の世界について、なぜはっきりしたことが分かるのでしょうか。それらは皆、根拠のない推測としか言いようのないものです。確かめようのないものに執着し、あれこれ惑うよりも、今、自分の身に確かに起こっていることに眼を向けるべきではないでしょうか。
今、自分の身に確かに起こっていること、それは他でもない、私が、今、ここに在るということの不思議です。なぜ、私は、人としてここに存在し、仏様の言葉を味わう身になっているのでしょうか。私は、気づけばここに在ったのです。自分の意思で人となり、自分の意思だけで僧侶になったのではありません。もし、両親のご縁がなければ、もし、正法寺が建立されていなかったら、もし、親鸞聖人、蓮如上人がお出ましにならなかったら、もし、四十六億年前に地球が誕生しなかったら・・・少し考えただけでも、手のつけようのない膨大な無数の縁が働き、宇宙に二つとない私というものをここに在らしめ、仏法を聞かせているのです。
私には、生死に関する深い道理を知る術はありません。しかし、私の上に起こっている不思議に想いを致すとき、私に深い悲しみを与えたあの出来事も、喜びを与えてくれたあの出来事も、すべては、私を仏法という安らかなる真実の世界へと導くためのものであったと味わうことができます。
誰もが経験する大切な方との死のお別れ、筆舌に尽くし難いその深い悲しみに対してまで、慶びと共に手を合わすことのできる世界が仏法でしょう。

本当に有り難い働きの中にいる私であることを深く味わいながら、一つ一つのご縁を大切にしていきたいものです。

2007年6月1日