先日、ある御門徒のご法事の折、御当家の方から、次のようなお話をいただきました。
「私等、仏様というとお願いごとをしたり、先祖の人達の供養をするものとしか考えたことがありませんでしたが、御院家のお話を聞いていると、どうもそういうものではないようですね。まだよく分かりませんが、私等の生き方に関わるようなものなんですね。」
少しずつでも、浄土真宗のお心に耳を傾けてくださったことを、大変嬉しく思いました。
浄土真宗のお心というのは、世間では明らかに非常識なものでしょう。これは、「門徒物知らず」という言葉が、昔からあることからも、うかがい知ることができます。門徒というのは、他の御宗旨では、檀家といいますので、門徒というだけで、浄土真宗門徒を表しています。「物知らず」というのは、浄土真宗の盛んな土地では、日本社会で当たり前に行われている様々な俗習が行われていないことを表しています。例えば、友引の日に平然と葬儀を勤めることや、家族の者から死者が出たからといって物忌みをしないことや、節分の豆まきやお正月のしめ縄作りをしないことなど、日本社会で当たり前に行われていることを浄土真宗門徒は、受け入れてこなかったのです。これは、世間からみれば、浄土真宗門徒は、常識を知らないということになるでしょう。それが「門徒物知らず」という言葉が使われるようになった所以です。
人は、常識的でない非常識なものを嫌う傾向があります。誰でも、非常識なものを受け入れるには抵抗があるでしょう。なぜなら、常識とされるものは、大多数の人々が正しいと判断しているものであり、非常識なものとは、大多数の人々が受け入れていないものだからです。
しかし、生活や政治のことならまだしも、私自身の命の問題を、常識か非常識かに委ねてよいものでしょうか。多くの人々が、正しいと思っていることが、本当に正しいことであるとは限りません。仏様の眼からみれば、人というのは、危ないものです。何が危ないのかというと、自分自身が正しいと思い込んでいるからです。間違いを正しいと思い込んで行動しているほど恐ろしいことはありません。宗教を持つというのは、自分自身の在り方を、自分というものを離れたところから見つめることのできる目を持つことでもあるのです。
これは、仏教だけの話ではありません。例えば、イエス・キリストの有名な言葉に「左の頬を打たれたら、右の頬を差し出せ」というものがあります。ハムラビ法典以来、「目には目を、歯には歯を」というのが、世間の常識でした。人から傷つけられたなら、やられた分だけ仕返しをすることが正しいことであり、そこに疑いを挟む余地など人々の中に微塵もなかったのです。しかし、イエスの言葉は、それが間違いであることを伝えているのです。傷つけられたから、相手を傷つけてもよいという道理は間違っているのです。いかなる場合も、相手を傷つけるような行いは慎むべきなのです。これは、お釈迦様もお説きくださっている正しい道理です。しかし、人というのは、自分が間違っているとは決して思わずに、罪を重ねていきます。ここに、宗教を持つことの大切さがあると思います。
仏教の話は、よく分からないという声を度々耳にします。それは、常識でない非常識な世界を語っているからです。常識を疑うことを知らない人には、仏教というのは、非常に受け入れがたいものでしょう。しかし、今まで常識的に当たり前だと思い過ごしてきた様々なことを、一度、点検してみることは、人生において必要なことではないでしょうか。当たり前だと思って行っていることは、あまり深く考えずに行っていることがほとんどです。たまたま頂いたこの命を、正しく生き、正しく死んでいくことが、私に課せられた大きな責任であり、仏教は、その責任を果たしていく道を説いています。何も考えずに当たり前に行っていることに疑いを持ったなら、それは、如来様の呼び声が聞こえ始めているのかも知れません。
どれだけ歳を重ねても、常識にとらわれず、いつも心柔らかに、如来様の声に耳を傾け喜んでゆける人生でありたいものです。