先日、小学校の保護者の方々とお話している時、「自分は、死んだらお墓なんか作ってもらわずに、海か山に骨を撒いてもらったらいいと思っているんです」というお話をされた方がいらっしゃいました。最近、若い方だけでなく、六〇代、七〇代の方々の中にも、このように自分のお墓はいらないとおっしゃる方は、増えているように感じます。親鸞聖人のお言葉の中にも、「某[親鸞]閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」というものがあります。親鸞聖人自身、命終わった後の亡骸は、京都の鴨川に流して、魚の餌にでもしてほしいとおっしゃっているのです。
これは、親鸞聖人ご自身が、自分のお墓はいらないと、はっきり名言されているということです。また、妙好人として有名な讃岐の庄松同行も、晩年、一人身の庄松同行の身を案じ、死後に立派なお墓を建ててやると進言してくれた友人に対して、「おらぁ、石の下にはおらんでな」と言って、その親切心を拒否した逸話が伝わっています。浄土真宗のみ教えに生かされる者は、私自身の命の行方は、阿弥陀如来のお浄土だと聞き開かせていただきます。自分の亡骸の行方に執着しないのが、本当のところでしょう。
しかし、これは、あくまでも自分自身について語る場合のことです。自分の父や母が先立った時、その遺骨をいとも簡単に捨ててしまうというのは、よほど冷徹な人間でないとできないでしょう。「賀茂河にいれて魚にあたふべし」とおっしゃった親鸞聖人のお墓は、後に遺された家族と門弟達によって立派に建立され、そのお墓は、後に本願寺となっていきます。本願寺という寺院は、全国の御門徒が、そこで親鸞聖人のお徳を偲び、親鸞聖人にお出遇いさせていただく場所なのです。阿弥陀如来を御安置している阿弥陀堂よりも、親鸞聖人を御安置している御影堂の方が大きな造りになっているのは、そのためです。お墓というのは、自分自身の問題ではなく、後に遺された遺族にとって、必要かどうかが問題にされるべきものでしょう。
これに関して、以前、大変温かいご法事のご縁をいただいたことがありました。大変お念仏を喜ばれた、ある御門徒の七回忌のご縁でした。最近は、参詣者が少ないご法事も増えてきましたが、その御法事には、三十代、四十代の若い男性の方々が、たくさんお参りされていました。皆さん、故人のお孫さんということでした。そのお孫さん方を囲んで、当家の御当主が、こんなお話を聞かせてくださいました。
「今日は、忙しい中、父の孫達が、みんな時間を作って、お参りしてくれました。この孫達が子どもの頃は、お盆になると、この家にみんな集まって、父と母を囲んで食事をしていたんですが、その時、父の恒例行事となっていたのが、五分間の仏様のお話でした。父は、お盆にお墓参りをするよりも、お仏壇に手を合わせることを大切にしていました。御馳走を前にして、じっと我慢して、お爺ちゃんの仏様のお話を聞くのは、孫達にとっては、苦痛だったと思います。でも、仏様を大切にしたお爺ちゃんのことを思って、忙しい中、こうしてみんなが時間を作って、お爺ちゃんのご法事にお参りしてくれるのは、本当にうれしいことです。」
大変、温かいご法事のご縁でした。お孫さん方は、ご法事にお参りすることで、改めてお爺ちゃんにお出遇いされているのだと思いました。やはり、人は、ただの骨になって終わるのではないと思います。命というのは、どこまでも繋がって生き続けていくのではないでしょうか。その大きな命の流れの中に、私の命も生かされているのだと思います。
阿弥陀如来の大きな願いに出遇った者にとっては、自分の亡骸がどうなろうと心配することではありません。しかし、私のことを一途に想い愛し、支えてくださった、そんな大切な方が先立った時、その方を大切に偲び、その方から頂いたご恩を大切に胸に刻んでいく、そんな場所を持つことは、人にとって大切なことではないでしょうか。お墓というのは、遺族の方々が、そんな思いをもって建立してきたものなのでしょう。
先立った方の死が、有縁の方々の掛け替えのない仏縁になっていくならば、これほど尊い死はないでしょう。温かいお弔いをさせていただきましょう。