先日、山口南組の連続研修会で、あるお寺の御門徒さんが、浄土三部経についてご質問されました。それは、次のようなご質問でした。
「昔のご法事では、よく前の日からご住職が来られて、浄土三部経をお勤めされていたことがありました。最近は、あまりご法事で、浄土三部経をお勤めするということを聞かないのですが、やはり、五十回忌までのどこかの年回忌では、お勤めしてもらった方がよろしいのでしょうか?」
これに対して、御講師の先生のお答えは、次のようなことでした。
「浄土真宗の正式な経典は、『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』の三つの経典です。この三つの経典をまとめて『浄土三部経』といいます。この『浄土三部経』のお心を頂くのが、正式なご法要の形ですが、『仏説無量寿経』だけでも、お勤めするのに、最低二時間はかかります。ですから、昔は、二日間かけてご法事をお勤めしていました。今は、誰もが忙しい時代になりました。『仏説阿弥陀経』か『正信念仏偈』だけをお勤めされているお寺様が、ほとんどかと思います。しかし、『浄土三部経』を頂きたいという思いは、尊いことですので、一度、お手次ぎの御住職にご相談されてみてはいかがでしょうか?」
この研修会が終わった後、このご質問について、山口南組の御住職方と雑談を交わしました。どこのお寺でも、最近は、『浄土三部経』をお勤めしてくださいというお願いは、全くなくなったということでしたが、七十歳代の御住職方が若い時には、時々ご依頼があったということでした。やはり、その時は、前の日から御門徒宅に伺い、二日がかりでご法事をお勤めしていたそうです。そんな雑談の中、あるお寺の七十歳代の前御住職が、次のようなことを教えてくださいました。
「私が若い頃、今は御往生された組内の御住職が、よくおっしゃっておられました。それは、ご法事で『浄土三部経』のお勤めを依頼された時は、その御門徒宅の仏間の畳を、全て新しく張り替えてもらうようにお願いしているということでした。『浄土三部経』を頂くというのは、最初から最後まで、お釈迦様から、阿弥陀如来のお慈悲を聞かせていただくということです。お釈迦様から、正式にお説教を頂くのですから、場所も身形も環境を綺麗に整えないともったいないとのことでした。本来のご法事というのは、それほどの心持ちでお迎えしないといけないものなのでしょうね。」
仏法に対する、妥協のない厳しい態度に、はっとさせられたことでした。
お経というのは、お釈迦様のお説教なのです。ですから、そのお経を頂くご法事というのも、お釈迦様から、阿弥陀如来のお慈悲を聞かせていただくご縁の場ということになります。故人は、私達に、お釈迦様のお説教を聞かせてくださる尊いお導きをくださったのです。
浄土真宗では、僧侶がお説教させていただくことを「お取次ぎ」といいます。これは、僧侶が直接、自分の考えをお説教するのではなく、お釈迦様のお説教を取り次いでいるのが、僧侶によるお説教だからです。僧侶の考えを聞かせていただくのと、お釈迦様のお説教を聞かせていただくのとでは、心持ちに大きな違いがあります。凡夫である僧侶の考えは、凡夫の話です。迷い多き凡夫の話を聞くのが、ご法事ではありません。仏様のお説教を聞かせていただくから、法の事なのです。仏様のお説教を聞かせていただくのなら、一つ一つ、頭を下げて丁寧にお迎えさせていただかなければなりません。また、僧侶自身も、丁寧にお迎えされるお姿の中に、仏様のお心をお取次ぎさせていただく責任の重大さを感じていくのではないでしょうか。
ご法事をお迎えする御門徒とお取次ぎする僧侶と、双方ともに、仏様の直々のお説教を聞かせていただく場という静粛さを持つことが、ご法事では大切なことなのでしょう。ついつい、世間の事と同じようにご法事のことも扱ってしまう私達です。
ご法事を文字通り、仏法の事として、お迎えされていた先人の方々のお姿に学ばせていただきましょう。