ある御門徒のお取り越し報恩講にお参りしたときのことです。90歳を迎えられた御当主が、次のようなお話をしてくださいました。
「年末には、今年も年忌表をいただき、ありがとうございました。年忌表を見ておりますと、今年は、前住職様、前坊守様も十三回忌になるんですね。その他にも、お世話になった方々の名前がたくさん載っていて、色々と懐かしく拝見させていただきました。今まで、色んな方に本当にお世話になってきましたし、お別れもたくさんしてきました。しかし、考えてみますと、聖人様のおかげで、みんな同じお浄土にやっていただけることを聞かせていただけていることは、ありがたいことですなぁ。ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・・」
浄土という世界について、仏教経典には、様々な形で説かれています。基本的な意味は、「仏様の浄らかな領域」ということです。あらゆる命を平等に愛おしく輝くものとして見ることのできる智慧を獲得し、あらゆる命を自らのこととして悲しみ、慈しんでいく慈悲の心を起こしていく、そんな浄らかな仏様が、感受していく世界を浄土というのです。小さな虫でも、凡夫には虫けらと感受していくものが、仏様は、キラキラ輝く愛おしい掛け替えのない命と感受していきます。一滴の水も、凡夫には、ただの水と感受するところが、仏様は、八功徳水と示されるような無限のお徳を湛えた水と感受していきます。そのような仏様が、感受していく真実の命の姿を捉えた世界を浄土というのです。そんな浄土の世界は、あらゆるものを慈しみ愛してゆける輝きに包まれた世界であり、喜びと安心に溢れてゆく世界です。阿弥陀如来の願いは、この浄土の世界を、あらゆる命の上に、もたらしていきたいというものなのです。
私たちが現在生きている世界を、仏教では娑婆といいます。娑婆は、個々の我執によって感受していく世界です。自分の都合に合う命に対しては、愛おしさをもって感受していきますが、自分の都合を邪魔する命に対しては、憎しみをもって感受していきます。そして、その都合は、人によって千差万別です。娑婆は、そんな風に、それぞれが、それぞれの都合によって、バラバラに描き出していく世界です。同じ世界に生きているようで、本当の意味で一つの世界に身を置いていません。他人の気持ちは、誰も本当の意味で分からないのが娑婆です。たとえ、親であっても子どもの心を、完全に分かりきることはできません。やはり、親子であっても、親と子で都合に違いがあるからです。一つに成れない悲しみ、別れていかなければならない悲しみを秘めているのが、この娑婆世界です。
それに対して、仏様のお心が感受していくお浄土の世界は、本当の意味で一つに成れる世界です。仏様の命を賜った人は、我執を離れて仏様と全く同じ世界を感受していきます。親鸞聖人が、最晩年に有阿弥陀仏という名の年下のお弟子に宛てたお手紙が残っています。そこには、次のようにあります。
「この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。」
私、親鸞は、すっかり年老いてしまいました。あなたに先立って往生させていただくことでしょう。お浄土で、あなたのことを必ず必ずお待ちしております。という意味のお言葉です。親鸞聖人は、最晩年になって、お浄土でまた会えることを、微塵も疑っておられません。また会いましょう、お浄土でお待ちしてます、と安心した中で、この娑婆世界を去っていく姿が、浄土真宗の念仏者の死に様なのでしょう。
私の都合で描き出されているこの娑婆世界こそ、夢幻のようなものです。その人の都合がなくなれば消えていくのですから。夢幻のようなものを本物と思い込み、消えていくようなものにしがみついていく、これこそ、凡夫の悲しさでしょう。阿弥陀如来の願いの力によって、私たちは、みんなお浄土に生まれていくのです。親鸞聖人も先立ったあの人達も、みんなお浄土でお待ちです。そして、今度は、娑婆世界での愛憎を超えて、本当に一つになってゆけるのです。大切にお聴聞させていただきましょう。