【住職の日記】
明けましておめでとうございます。今年も、お念仏薫る中に、悲喜交々の日々を有り難く頂戴して参りましょう。
さて、先日、ある御門徒の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。
「御院家さん、先日は、お取り越し報恩講のお勤め、ありがとうございました。一年生になる孫と一緒にお正信偈のお勤めが出来て、本当に有り難いご縁でした。孫が、聖典を持って、一緒にお勤めしてくれたのは、うれしかったのですが、お勤めの途中、孫は、残りのページ数がどれくらいあるか、何度もページをめくって確認するんです。早く終わってほしかったのでしょうね。でも、それを見て、私もご縁をいただいた最初の頃は、同じ事をしていたなぁと微笑ましく思いました。孫も、私と同じ道を歩んでくれているなぁと思うと、うれしかったです。」
とても、ほっこりするお話を聞かせていただきました。お勤めというのは、決して楽しいものではありません。内容の分からないものを、姿勢を正し、声に出して読み続けるというのは、大人でも大変なことだと思います。まして、文字を習い始めたばかりの小学一年生にとっては、なおさらのことでしょう。
お勤めは、正式には「読誦(どくじゅ)」と言い、阿弥陀如来のお浄土へ往生するための正しい行いの一つに数えられるものです。親鸞聖人がとても尊敬されている、善導大師(ぜんどうだいし)という中国の唐の時代に活躍された高僧は、阿弥陀如来のお浄土へ往生するための正しい行いとして、五正行(ごしょうぎょう)という五つの行いを示されています。この五正行の中に、読誦が含まれています。お経を声に出して拝読するお勤めは、お浄土に往生するためには、正しく心がけていかなければならない大切な行いなのです。
仏教というのは、本来、この正しい行というものを積み重ねることによって、正しくない自分自身を正していくことを教えるものです。正しい行いをし続けることによって、正しい在り方である仏様へと近づいていく道を教えているのが仏教です。しかし、これを実行していくことは、かなり難しいことなのです。読誦も、ただ声に出してお経を読んでいればよいというものではありません。正しい行いというのは、正しい心が伴っていなければならないのです。姿勢を正し、声に出してお勤めをしていても、その心の中が仏様とはまったく別のことで占領されているのなら、正しい行いをしたことにならないのです。本来の読誦は、心に仏様のことを一心に純粋に思いながら、お勤めをすることなのです。
しかし、私たちの心は、なかなかそのようにはなっていきません。表向き、きちんと姿勢を正し、丁寧にお勤めをしているようでも、心の中は、仏様とはまったく別のことを考えています。早く終わらないかなぁと考えながら、残りのページ数を気にする姿は、私たちが、どれほど正しい行いからかけ離れた存在かを物語っています。親鸞聖人ご自身も、そのことに深く悩まれ、自分自身に絶望していかれたのです。そして、その絶望の中で出遇っていかれたのが、阿弥陀如来の本願でした。
阿弥陀如来の願いは、どうしようもない我が子の幸せの実現です。阿弥陀如来の慈しみの眼差しは、どうしようもない存在にこそ向けられているのです。姿勢を正し、お経を拝読しながらも、残りのページ数を気にする人間を、切り捨てるような仏様ではありません。むしろ、そういったどうしようもない人間を、愛してくださるのが、本当の仏様なのです。愛してくださるというのは、決して見捨てることなく、必ず責任をもって、そのどうしようもない人間を育ててくださるということです。
私たちは、お勤めをすることを通して、実は、阿弥陀如来様からのお育てをいただいているのです。残りのページ数が気にならなくなった私がいるのなら、それは、私の行いの積み重ねの結果ではありません。阿弥陀如来の深い願いが、私を育ててくださった結果なのです。どうしようもない私が、不思議にも変化している姿の上に、仏様の働きを実際のものとして味わっていくのです。これが、仏様との出遇いです。
親鸞聖人は、一生懸命姿勢を正しながら、残りのページ数を気にしてしまう、そのどうしようもない姿は、阿弥陀如来に温かく抱かれている有り難い姿であることを教えてくださいました。
仏縁の中にある姿というのは、それがどんな姿であれ、本当に尊いことです。大切なお子さんやお孫さんと一緒に、温かいお慈悲に抱かれていく幸せな日々を、大切に心がけていきたいものですね。
【住職の日記】
先日、ある御門徒宅でのご法事でのことでした。お勤めをさせていただき、その後、いつものように御法話をお話させていただきました。御法話を話終えた時、お参りされていたご親戚の男性の方が、拍手をされました。隣に座っておられた奥様が、すかさず拍手をするご主人の手を押さえられ、小声で「やめてください」と拍手を止められたのです。それに対して、ご主人は、「よかったんやから、ええやないか」と納得できないご様子でした。
御法話を聞かせていただく作法としては、拍手しないのが正解です。その理由は、大きく二つあるように思います。
一つは、御法話というのは、お取り次ぎだからです。「お取り次ぎ」というのは、仏様のお話を取り次いでいるという意味です。講演会で聞くお話は、講師の経験を元にした、講師が知る世界が披露されます。有名な講師ほど、他の人が経験し得ない貴重な経験をされ、他の人が知り得ない世界を知っておられるということでしょう。その講師からお話を聞かせていただき、感動をいただいた場合、その講師を讃える意味で、大きな拍手が送られるのです。
しかし、僧侶がお話する御法話は、僧侶自身の経験を元にして、僧侶が知り得る世界を披露しているのではないのです。御法話というのは、仏様が経験されたお悟りの世界を、経典から僧侶が聞かせていただき、それを、僧侶が取り次いでいるだけなのです。もちろん、経典の言葉を、そのままお伝えするだけでは、伝わらないことが多いでしょう。そこに、僧侶が日常生活の中で経験した例え話を交えたりする法話のテクニックが入ります。しかし、御法話は、例え話が中心ではありません。例え話だけを聞いていたのでは、結局人の経験を聞いているだけに過ぎません。御法話は、仏様が経験された世界を聞かせていただくところに、大切な意味があるのです。どんなに上手な例え話であっても、例え話をする僧侶を讃えるということがあってはなりません。私達が、本来、讃えなければならないのは、僧侶ではなく仏様なのです。
二つには、その仏様を讃えるということ自体、実は、人には出来ないということです。讃えるというのは、とても難しいことなのです。例えば、日本には、叙勲制度があります。様々な分野で国家に貢献された方に対して、その人の功績に応じた勲章が授与されます。勲章が授与された方を讃えることを考えてみたいと思います。もし、勲二等にあたる勲章を受賞された方に「勲一等の受賞、おめでとうございます」と讃えたとしたら、これは、讃えたことになりません。讃えるどころか、嫌みになります。逆に「勲三等の受賞、おめでとうございます」と讃えても、本人を貶すことになります。讃えるというのは、その人の本質、その人の素晴らしさや輝きを正確に受け止め、その功績にふさわしい言葉で讃えなければ、本当に讃えることはできないのです。
仏様を讃えることができないというのは、私達には、仏様の本当の素晴らしさや輝きは正確には分からないからです。仏様を讃えることが出来るのは、仏様だけです。『仏説阿弥陀経』の中には、十方の様々な諸仏方が、阿弥陀如来を讃えておられる様子が説かれていきます。仏様同士でしか成しえない行為が、仏様を讃えるという行為なのでしょう。
しかし、阿弥陀如来を讃える言葉が、お釈迦様によって経典の中に示されているのです。その言葉が、「南無阿弥陀仏」です。親鸞聖人は、『尊号真像銘文』というお書物の中で「南無阿弥陀仏をとなふるは、仏をほめたてまつるになるとなり」と仰っておられます。私が、「南無阿弥陀仏」と称えたら、阿弥陀様をほめたことになるというのです。私には、仏様、阿弥陀様をほめる言葉を紡ぎ出していくことはできません。しかし、お釈迦様から阿弥陀様をほめることになる言葉を与えてもらっているというのです。
拍手は、仏様を讃える行為ではなく、人である僧侶を讃える行為です。また、煩悩に振り回されていく凡夫である私達には、仏様を讃えること自体が難しいのです。しかし、「南無阿弥陀仏」の一言は、仏様自身が紡ぎ出した仏様を讃える言葉です。この六字の言葉の中には、無量の徳が込められています。一言称える中に、仏様の様々な働きが、私の命の上に満ちてくださるのです。
御法話は、僧侶が取り次ぐ仏様のお話です。仏様のお心に感動し、拍手ではなく、仏様を讃えるお念仏を申すことを心がけましょう。
【住職の日記】
先日、保育園関係の研修会で、自己肯定感についてのお話を聞かせていただきました。日本人は、世界の中で相対的に自己肯定感が低いそうです。自己肯定感とは、自分の存在をありのままに認め、その自分を好意的、肯定的に受け止めることができる感覚を言います。二〇一六年に、日本の小学四年生~高校三年生の子どもを対象として自己肯定感の有無を調査したところ、五割を超える子どもが、自分のことが嫌いと答えたそうです。日本人の低い自己肯定感の背景には、敗戦の歴史や遺伝子的な問題等、様々に考えられるそうですが、自己肯定感は、その人の心がけで、いつからでも高めていけることができると言います。また、自己肯定感が高い人は、自分を尊重するように、同じように相手のことも尊重できるのだそうです。自分を認め、人を認められる姿が、自己肯定感の高い人の姿だそうです。
お話を聞かせていただいて、疑問に思うことがありました。本当の自己肯定感というのは、仏教を抜きにしては語れないのではないかということです。人は、必ず年老い、病に罹り、死んでいかなければなりません。老いていく私、病に苦しんでいく私、死んでいく私、これが、ありのままの隠しようのない本当の私です。年老い、病に罹り、死んでいく私を、ありのままに認め、好意的、肯定的に受け止めることが、心がけ一つで出来ていくでしょうか。これが、人の心がけ一つで出来ていくならば、お釈迦様のご苦労も、親鸞聖人のご苦労もなかったことでしょう。
仏教というのは、本当の自己肯定感、本当の自分を取り戻す道だということができます。お釈迦様は、お城に住む王子様であった時、老いて病んで死んでいく自分自身の姿について、深く苦悩したことが伝えられています。それは、本当の自分をありのままに認めることが出来ない苦しみです。人生における苦しいことや嫌なことは、逃げることが出来たり、時間が経過し状況が変化すれば解決することがほとんどです。しかし、自分からだけは逃げることができません。また、老い、病み、死んでいくという自分が抱える状況は、けっして変わることはありません。親鸞聖人も、生死出づべき道に苦悩し、比叡山での修行に行き詰まり、法然聖人のもとに救いを求めに行かれたことが、奥様の恵信尼様のお手紙に記されています。「生死出づべき道」というのも、若き日のお釈迦様が苦悩された本当の自分を認めることの出来ない状況からの脱却の道のことです。
私の人生は、何のためにあるのか、考えたことがあるでしょうか?楽しむことが、人生の目的になっていないでしょうか。お釈迦様は「人生は苦である」というお言葉を遺されています。これは、人生は、楽しむためにあるのではないということを示されたお言葉です。人生の目的は、楽しむことではありません。人生は、本当の自分を取り戻し、真実に目覚めていくためにあるのです。
親鸞聖人が歩まれたお念仏の人生も、楽しむためではありません。生老病死を抱えるありのままの自分を、ありがたいものとして味わい、真実に目覚めていくための人生が、お念仏の人生です。お念仏の人生とは、どこまでもお念仏が中心です。仕事をしながらお念仏を申すのではありません。食事をしながらお念仏を申すのではありません。お念仏を申しながら仕事をし、お念仏を申しながら食事をし、お念仏を申しながら日常生活を送るのです。お念仏とは、仏様そのものです。仏様は、お仏壇にだけいらっしゃるのではありません。お浄土でじっと私を待っておられるのでもありません。言葉となって、私のところにいらっしゃるのです。言葉の仏様は、人生を通じて、私を育ててくださいます。どんな時も、私を呼び覚まそうと響き続けてくださいます。自分で自分を見捨ててしまいそうになる絶望的なことがあっても、仏様だけは、けっして私を見捨てたりしません。お念仏の人生を歩む人は、仏様によって自己が肯定されていくのです。
親鸞聖人は、自らを「罪悪深重の凡夫」と呼ばれ、「愚禿釈親鸞」と名告っていかれました。「愚禿」というのは、どうしようもない愚か者という意味です。「釈」というのは、お釈迦様の一族として、正式な仏弟子として認められていることを表わしています。どうしようもない愚か者でありながら、仏様から見捨てられていない存在であることの表明が、「愚禿釈親鸞」という名告りでしょう。
年老い、病み、死が現実のものとして近づいてくる時も、けっして自己肯定感が失われていかない人生が、お念仏の人生です。大切にお念仏を申していきましょう。
【住職の日記】
最近は、二世帯が同居しないことが当たり前になりました。おじいちゃん、おばあちゃんが、一緒の家に住んでいない核家族がほとんどです。二世帯が同居していた時代は、仏事に関することも、自然と次の世代に伝わっていましたが、現在は、親の世代が亡くなったことをご縁に、はじめて仏事に関わる人が増えてきました。
そんな中で、先日、ある御門徒のご法事で、とても有り難いお姿に出会うことがありました。そこのお宅も、何十年と親世代と子ども世代とが、別々に家を持ち暮らしている状況です。子ども世代が、遠方に暮らしていることもあり、ご法事でも、子ども世代のご家族は、今までお参りされていませんでした。そんな中で、親世代が、ある日、急に亡くなったのです。
葬儀までは、様々な意味が分からなくても、葬儀社の方々が進めてくれます。また、葬儀社の会館を使用すれば、ご自宅のお仏壇を触ることなく、仏事を勤めることができます。おそらく、最近のご遺族の方々は、仏事を勤める意味も分からないまま、葬儀社に流されるように、火葬まで終わっていくことが多いのではないでしょうか。
一年後、一周忌を迎える少し前に、お電話でご案内をいただきました。一周忌からは、お仏壇のあるご自宅でお勤めしたいということでした。一周忌をお迎えした日、お約束通り、ご自宅にお参りをさせていただきました。お仏壇の前に座らせていただいた時、驚きました。お仏壇のお荘厳が、完璧だったのです。完璧にお荘厳されたお仏壇というのは、正直なところ、最近は少なくなりました。蝋燭の本数が違っていたり、供物の位置が違っていたり、余計な物が置かれていたりと、御門徒の方々の迷いが、そのままお仏壇のお荘厳に表われていることが多いのです。見たところ、ご親戚の方々はお参りされていません。今まで仏事に関わってこなかった若い世代の方々だけで、どうやってここまで完璧にされたのかと不思議に思ったことでした。
すると、施主様からすぐにお尋ねがありました。
施主
「お仏壇のお飾りで、どこか間違っているところはないですか?」
住職
「いいえ、完璧ですよ。とても綺麗にお荘厳されていると思います。どなたかに教えていただいたのですか?」
施主
「昨日の夜、自分達だけでやってみたんです。自分達は、何も分からなかったんですが、亡くなった父親が法事ノートを作っていたんです。そのノートを開いてみると、お仏壇のお飾りについても、図入りで細かく指示されていました。意味が分からないところは、インターネットで調べたりして、何とかここまでお飾りをしました。子どもの頃、法事の前になると、いつも父親が、ノートを一生懸命見ていたことを思い出したんです。そのノートを開いてみると、何度も書き加えられた跡があって、父親も、色々と苦労しながら、親の法事を勤めていたんだなと思いました。」
お仏壇のお荘厳というのは、阿弥陀如来のお浄土の世界を形で表現するものです。それは、仏様のお心によって整えられていく秩序の世界です。迷いや混乱は、無秩序です。お荘厳が乱れるというのは、人間境涯の無秩序な迷いや混乱を仏様の世界に持ち込むということでもあるのです。きちんと仏様のお心によって秩序立てられたお仏壇の前に座ることによって、仏様のお心を敬うことができるのです。
仏事というのは、仏様のお心に出遇い、仏様のお心によって知らされてくる世界をいただくところに大切な意味があります。しかし、そこには「敬う」という心が、具わっていなければなりません。敬うというのは、ただ単に大切にするという意味ではありません。それは、教えに順うという意味が含まれているのです。自分を超えた世界に出遇い、その世界に頭が下がり、その世界が教えてくださる言葉に、自らを委ねていくのです。
分からない中でも、何とか正しいことをさせていただこうとする姿勢の中に、仏様を敬う心が伝わっていることを感じ、とても有り難いことでした。それは、言い換えれば、ちゃんとそこに、仏様が働いてくださっているということでしょう。
お参りされるご親戚が少なくなり、お斎も用意されなくなるなど、ご法事の形は、時代と共に変わっていきます。しかし、形はどんな風になったとしても、仏様を敬う心だけは大切にさせていただきたいものです。
【住職の日記】
先日、お寺に一本の電話がありました。それは、次のようなご相談の電話でした。
「突然、お電話して申し訳ございません。私は、老人施設に入っている者です。もうあまり長くは生きることができないと思っています。いよいよ、自分の死が現実のものになってきて、自分の生き方や死の受け止め方について、色々と悩むようになりました。私の実家は、浄土真宗ですが、お恥ずかしながら、教えを聞く機会がないまま、こんな歳になってしまいました。何か自分が安心できるものが欲しくて、インターネットで死生観について検索してみましたが、ほとんどがキリスト教のものばかりが出てきます。キリスト教の死生観についても、一通り、色々と読みましたが、何かしっくりきません。やっぱり、自分には実家の浄土真宗が合うのかと思い、『歎異抄』を一通り、読ませていただきました。浄土真宗の死生観について、インターネットで検索していると、正法寺様のホームページが目にとまりました。電話番号が書かれてあったので、思い切って電話してみました。死が浄土に生まれるご縁であることは分かるのですが、死を迎えるまで、何をして生きるのが正しいことなのですか?私は、残りの人生、何をすればよいのでしょうか?」
人は、自分自身の死と向き合ったとき、初めて、自身が抱える命の問題に出会うのかもしれません。多くの命がある中で、自分が死んでいくことを知っているのは、人だけだと言います。死んでいく自分は、何のために生まれてきたのか、死んでいく人生にどんな意味があるのか、答えようのない根本的な命の問題と向き合うのが、人らしさであり、人だけが持つ宗教の営みが、ここにあります。
宗教という言葉は、現代では、あまりに多くの意味を含んでいます。いわゆる世間の常識から逸脱している価値観を教えるものは、すべて宗教という言葉でくくられます。それが、本当に人の人生を正しい方向に導くものかどうかは、問われることはありません。信じるか信じないかは、個人の自由なのです。自由であるというのは、とても大切なことですが、それは、個人個人に大きな責任が課せられているということでもあります。選んだ宗教によって、人生が破壊されるようなことがあっても、誰も責任をとってくれません。それもまた個人の責任です。
それでは、人生を正しい方向に導く宗教と人生を破壊していく宗教との違いは、どこにあるのでしょうか?正しいというのは、安定している状態のことをいいます。不安定な状態は、正されなければならない状態であり、正しい状態とは言えません。生と死に関して言えば、生も死もどちらも有り難いものとして受け止めていれば安定しています。そこに不安はありません。しかし、生だけが有り難く、死は無意味で悲惨なものと受け止めているならば、それは、不安を抱えた状態です。生を支えるものだけを求めさせるものは、人生を破壊していきます。なぜなら、死のない生はあり得ないからです。生も死も有り難いと言える世界が開かれてこそ、本当の意味で、人は安定した状態に導かれていくのです。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、お念仏を申す人生を歩むことが、正しい方向に導かれていくことだと教えてくださいました。また、そのことが本当であることを、ご自身の九十年のご生涯を通じて証明してくださいました。親鸞聖人に、人生において、私は何をすべきかと問えば、お念仏を申すことだと仰るでしょう。
お念仏とは、阿弥陀如来が言葉になって、私に寄り添っている姿です。寄り添うというのは、人生の様々な場面を通して、私を呼び覚まし続けるということです。仏様の安定した悟りの世界が、不安定な私を、正しき方向へと呼び覚ましていくのです。悲しいことがあれば、悲しみの中に響くお念仏の声は、悲しみの中にも合掌していける意味があることに気づかせてくださいます。嬉しいことがあれば、喜びの中に響くお念仏の声は、欲を満足させるのではなく、感謝の念をもたらせてくださいます。私達は、モーターボートのように身軽ではありません。積年の罪と障りをいっぱいに乗せた石油タンカーのようなものです。お念仏の人生は、ゆっくりゆっくりと、私を、方向転換させてくださるのです。
自分の生と死にまじめに向き合い、お念仏を申す中に、安定した正しき方向へと歩む日々を大切にさせていただきましょう。
【住職の日記】
先日、幼い時にお父さんを亡くしている小学生が、「僕のお父さんは、仏様のお仕事をしているの。」と話してくれたことを聞きました。その男の子は、お寺の子どもさんですので、ご家族の方々が、そのように男の子にお話をしてきたのでしょう。誰もが、早かれ遅かれ、必ず命終えていかなければなりません。私達は、命終えていくことの意味を、子どもに語る言葉を持っているでしょうか?改めて、仏法を聞くことの大切な意味を教えられたような気がいたしました。
死者のことを語る言葉は、「天国に行った」「お星様になった」など、人間世界に溢れています。いずれも、先立った方の幸せを願い、また、その存在をいたわる思いから紡がれるものでしょう。誰もが、大切な方の死に直面したとき、その方の幸せを願わずにはおれません。
しかし、本当の幸せとは何でしょうか?これは、なかなか難しい問題です。古今東西、様々な宗教家や哲学者が、この問題と向き合い、様々な答えを出しています。実は、仏教も、お釈迦様の青年時代の深い苦悩から始まっており、仏教とは、お釈迦様が求められた幸せになるための道なのです。
一人のインドの国に生まれたゴータマ・シッダールタという名の苦悩を抱えた青年は、二十九歳で出家し、三十五歳の時、悟りを開き仏と成りました。悟りを開き仏と成った彼に出会った者は、みんな彼のような仏に成りたいと思ったのです。それが仏教の始まりでした。なぜ、お釈迦様に出会った人々は、みんな感動し、お釈迦様のような仏に成りたいと思ったのでしょうか?それは、お釈迦様が、誰よりも幸せに満ちておられたからでしょう。みんなお釈迦様のような、幸せな人に成りたいと思ったのです。
仏教徒にとっての本当の幸せとは、仏様に成ることに他なりません。仏様とは、智慧と慈悲を完成した者とされます。智慧というのは、簡単に言うと感受性のことです。仏様の智慧というのは、あらゆるものを平等に感受できるものと言われます。好き嫌いがありません。愛と憎しみもありません。私達には想像することもできない世界ですが、あらゆるものが一つに溶け合っていくような領域だと言われます。そして、その真の平等の世界から生まれてくる心が慈悲と言われるものです。慈は、心から相手の幸せを願える慈しみの心です。悲は、心から相手の悲しみを悲しめる呻きの心です。どんな人も、どんな動物も、どんな虫も、どんな草花も、命あるものをみんな平等に尊く感受し、どんな命も同じように愛おしく慈しみ、愛おしく悲しんでいける、そんな命の領域に生きる姿を仏様と言うのだそうです。
そして、本当の仏様とは、如来と表現されます。如来とは、真如より来たる者という意味です。それは、願いだけでなく、本当にあらゆる命を幸せにする力を持った者ということです。あらゆる命を愛おしく慈しみ、あらゆる命の悲しみを我がごととして呻いていく者が求める幸せは、あらゆる命の安らぎしかありません。あらゆる命の幸せが、そのまんま仏様の幸せなのです。
仏様に成るというのは、まず、あらゆる命を平等に愛せる者に成るということです。そして、愛せるだけでなく、愛するあらゆる命を幸せにできる力を備えていくということです。親鸞聖人は、八十五歳以降に書かれた『正像末和讃』というお書物の中で、ご自身のことを「小慈小悲もなき身にて・・・」とご述懐されています。「小慈小悲もなき身」というのは、この世界で最も愛おしい我が子でさえ、本当の意味で幸せにすることができない愚かな我が身という意味です。愛おしい者を幸せにできないことが、不幸なことであり、自分だけが幸せになる道はあり得ないのです。
今は、愛おしい我が子でさえ幸せにすることができない愚かな私ですが、この命終えるご縁をいただいたとき、今度は、お浄土に生まれさせていただき、愛おしい命を幸せにできる仏様に成らせていただくのです。これが、我が身を愚か者と述懐される親鸞聖人が、喜んでいかれた幸せの実現の形なのです。
「仏様のお仕事をしているの」という男の子の一言には、本当の幸せを実現されたお父さんの姿と、今もそのお父さんに愛され続けている自分との出遇いが込められています。お寺にお参りをし、お聴聞させていただく中に、本当の幸せを確認していく日々を大切にさせていただきましょう。
【住職の日記】
先日、中学生とお年寄りの方との交流会にご参加された御門徒の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。
「先日、中学校から、最近の中学生はお年寄りの方と接する機会が減っているので、お年寄りの方と接する機会を作りたいというお話がありました。何人かの知り合いに声をかけて参加させてもらったんですが、後で、中学生からいただいた感想文を読んで、ショックを受けました。『お年寄りは、かわいそうだと思いました。』と感想を書いている中学生が、とても多かったんです。年を重ねるということの幸せを、色々と中学生にお話しましたが、どこまで伝わったのか分かりません。何か寂しい感じがします。」
子どもの感性は、周りの大人の感性によって育てられていくものです。子どもだけではなく、現代は、大人も、「お年寄りは、かわいそう」と受け止めていく人が多いのではないでしょうか。しかし、これは、現代だけの問題ではないのかも知れません。本来、人間が持つ感性は、このような、どこか貧しいものなのでしょう。
二五〇〇年前、青年だったお釈迦様が悩まれたものの一つも、この老いるという避けがたい現実でした。お城に住む王子様だったお釈迦様の周りには、幼少期から青年期に至るまで、若い男女しかいなかったと言われています。それが、青年となり、はじめて街に出て、老人に出会うのです。顔には皺が深く刻まれ、腰が曲がり、おぼつかない足取りで歩く人間を初めて見たとき、青年だったお釈迦様は、衝撃を受けます。家来に、「あれは、何だ?」と尋ねたと伝えられています。もしかすると、青年だったお釈迦様も、老人を見て「かわいそう・・・」と思われたかもしれません。しかし、次の家来の言葉によって、老人の姿が、お釈迦様自身に深い悩みをもたらしていきます。その言葉は、「あなたも必ず老人になっていくのです。」という一言でした。
老いるという現実が、他人事であるうちは、「かわいそう・・・」で済んでいくかもしれません。しかし、それが自分事であるなら、「かわいそう・・・」では済みません。誰もが、かわいそうな自分には、なりたくないからです。しかし、生き続ければ、必ず老いていくのです。老人を「かわいそう・・・」と受け止めていく人にとっては、自分が老いていくことは、悲劇以外の何者でもありません。二五〇〇年前に一人の青年を襲ったこの悲劇が、仏教の出発点となっていくのです。
この悲劇を抱えた二十九歳のお釈迦様は、王子という地位や名誉、財産、また家族までも捨てて、一人、悟りを求めていかれます。そして、三十五歳の時、菩提樹という木の下で、悟りを開かれたと伝えられています。悟りというのは、経験した者でしか、その全容は分かりません。親を経験したことない子どもが、親が見ている世界が、分からないことと同じです。しかし、分かることはできませんが、経験をしている人の言葉や振る舞いに触れることによって、その世界を垣間見ることはできます。
仏教というのは、悟りの世界を経験していない人間に、その世界を分からせようとする教えではありません。どうすれば、お釈迦様と同じ悟りの経験を得ることができるのか、その道を教えようとしているのです。それと同時に、その悟りの世界を垣間見ることができるような言葉を紡いでくださり、私達に、本当の正しい世界がどういうものかを知らせようとするものなのです。
悟りを経験されたお釈迦様の言葉の中には、老いることが悲劇であるような言葉はありません。むしろ、老いることの中に喜びを味わっておられる世界を垣間見ることができます。老いることが悲劇ではないのです。老いることを悲劇としか受け止めることのできない感性が、悲劇なのです。仏様というのは、喜びに満ちた存在です。本当の自分、そのままの自分を喜べる世界を教えてくださいます。本当の自分、そのままの自分とは、老いて病んで死んでいく思いのままにならない自分です。
呪いや祈祷によって、現世の御利益を謳う宗教は、これら思いのままにならない現実から、逃げることのできる道があると教えるものです。それは、本当の自分から逃げることを教えていくものでしょう。しかし、仏教は、本当の自分から逃げる道ではなく、本当の自分を受け入れ喜ぶことのできる道を教えてくださるのです。
思いのままにはなっていかないのが、私の人生です。仏様のお言葉に触れる中に、年を重ねても、幸せそう・・・と思われるような喜びに満ちた日々を大切にしていきましょう。
【住職の日記】
先日、日曜学校の子ども達に、妙好人として有名な足利喜三郎(あしかが きさぶろう)さん、通称、因幡の源左(いなばのげんざ)さんのお話をさせていただきました。源左さんは、鳥取県の浜村温泉に近い山合いの小さな村に生まれ育った根っからのお百姓さんで、文字は、読むことも書くこともできなかった人でした。江戸末期の天保十三年に生まれ、昭和五年に八十九歳で御往生されています。
源左さんが、本気で仏教を聞くようになったのは、十八歳の時、頼りにしていた父親が、コレラで亡くなったのが大きな機縁になったと言われています。最初は、お寺にお参りし、仏様のお話を何度聞いても、なかなか仏様のお心を味わうことができなかったそうです。しかし、様々な人生の苦悩をご縁として、真剣に仏法を求め続ける中で、実感として仏様の存在を味わえるようになっていかれます。
真の念仏者に育っていかれた源左さんの口癖は、「ようこそ、ようこそ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」だったそうです。私達は、自分に都合の良い出来事は、「ようこそ、ようこそ」と喜んで受け入れていくことができます。しかし、源左さんの「ようこそ、ようこそ」は、逃げ出したくなるような人生の苦難の中にあっても、同じように「ようこそ、ようこそ」と受け入れていくものでした。私達の人生は、思いのままにならない生老病死に貫かれています。このけっして逃げることのできない根本的な人間苦を、どのように乗り越えていくかが、仏教が課題としているものなのです。思いのままにならない自分の生まれも老いも病も死でさえも、大切なありがたいものとして「ようこそ、ようこそ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」と受け入れ、自分の人生に合掌していかれたのが、妙好人源左さんのお姿だったのです。
こんな内容のお話を、子ども用にかみ砕きながら、日曜学校でお話させていただきました。お話をさせて頂いた時、一番前に座って聞いてくれていた女の子が、一言「すごっ!」と声を上げてくれたのです。とても子どもらしい素直な反応に、こちらが感動させていただいたことでした。
仏様のお話というのは、誰もが、それを聞いて感動出来るものではありません。人間境涯においては、社会的な地位や名誉、また、財産を手に入れることの方が、価値があるものとされます。社会的に地位がある方、大企業の社長や大臣といった方々は、人間社会からとても大切にされます。警護の方がつき、命を守ってくれます。移動も運転手付きの立派な車だったりします。それは、人間社会から価値あるものとして認められているからでしょう。逆に、根っからのお百姓さんであった源左さんのような方には、警護の方もつきませんし、運転手付きの車も用意されません。普通は、文字の読み書きもできないお百姓さんの話よりも、大企業の社長さんような立派なサクセスストーリーを聞くことの方が、人間は、興味を持ち感動するものなのです。
そんな中で、仏様の悟りの世界に触れて、「すごい!」と感動出来るというのは、それこそ、すごいことだと言わなければなりません。それを親鸞聖人は、不思議という言葉で表現されています。私達が、仏様のお話を聞いて、それを有り難いものとして感動し、頷いていくというのは、当たり前のことではなく、不思議なことだとおっしゃるのです。親鸞聖人は、その不思議は、阿弥陀如来様の願いの働きによるものだともお示しくださいます。仏様のお話を聞き、感動できる姿は、阿弥陀如来様の願いに抱かれている姿でもあるのです。
喜ぶべきことに喜び、驚くべきことに驚いていく、人が人である所以は、そんな豊かな感受性にあるのではないでしょうか。浄土という言葉で表わされていく仏様の世界は、あらゆる命がキラキラ輝いている世界として説かれていきます。それは、私達命あるものの充実した姿、満たされた本当の幸せな姿が、どんな姿であるのかを教えてくださるものなのです。
人が本当に輝いていくのは、社会的な成功や欲望が叶えられた時ではなく、本当の喜びと感動に心が満たされていく時でしょう。たとえ、社会から必要とされないような立場であっても、本当の喜びと感動に心が満たされている人は、輝いています。仏様の救いの世界は、一人一人のどんな人生の上にも、本当の輝きをもった命の有り様を恵んでくださるものなのでしょう。
限りある毎日です。欲にまみれた願いを追い求める日々ではなく、仏様のお話を聞いて、驚くべきことに驚き、喜ぶべきことに喜んでいく、何十歳になっても仏様の願いに抱かれる本当の輝きに満たされた日々を大切にさせていただきましょう。
【住職の日記】
先日、ある僧侶の方から、次のようなお話を聞かせていただきました。
「僕は、大学は宗門の龍谷大学ではなく、一般の国立大学に通っていたんです。その大学時代に、僕は、仲の良かった友人を亡くしているんです。突然死でした。大学生だった自分にとって、仲の良かった友人が、ある日突然亡くなるというのは、本当にショックなことでした。友人の家は、大学から電車で一時間ぐらいの所にありました。しばらく本当に辛くて、毎週、電車に乗って、友人の家のお仏壇にお参りをさせてもらっていました。友人の家も浄土真宗でしたから、お仏壇の前に座らせてもらい、『讃仏偈』をお勤めさせてもらっていました。すると、友人のおじいちゃんが、それを大変喜んでくださって、僕のお勤めの声を録音してくださるのです。その録音した僕のお勤めの声を、毎朝、お仏壇の前で流しているとおっしゃっていました。僕以上に悲しい思いをされてたと思うんですが、うれしそうな笑顔で、いつも僕を迎えてくださるおじいちゃんのお顔が、今でも忘れられないんです。」
読経の声というのは、内容が分からなくても、人を癒やしていく不思議な力があるように思います。以前、あるテレビ番組で、お釈迦様がお生まれになった地として伝えられるネパールのルンビニで、様々な国の僧侶が、それぞれに読経している姿が放映されていました。違う言語を持つそれぞれの国の僧侶が、同じ仏様を敬い、同じように読経している姿は、本当の平和な姿を教えてくださるものでした。
読経というのは、仏教においてとても大切な行の一つです。この世界には、様々な言葉が溢れています。言葉の背後には、それを紡ぎ出した心があります。怒りや憎しみの心が紡ぎ出していく言葉は、人を傷つける力を持ちます。逆に人を愛する心が紡ぎ出していく言葉は、人を救う力を持ちます。また、言葉は、人だけが持つものではありません。動物や虫、草花までもが、みんな言葉を持っています。その中で、仏様の心によって紡ぎ出されたのが、お経の言葉です。お経の言葉に触れることによって、私達は、仏様のお心に触れていくのです。
お経に関わる行いとして、もう一つ写経というものがあります。これは、お経を黙読し、一字一字間違いなく写していく行いです。これも大切な行いですが、仏教では、写経よりも読経が重視されます。
親鸞聖人が大変尊敬された七人の高僧のお一人、善導大師という方も、阿弥陀如来の真実の浄土に生まれていくための正しい五つの行いの一つに、「写経」ではなく「読誦」を上げておられます。「読」は、文字を見て声を出してお経を読むことです。「誦」は、文字を見ずに声をあげてお経を読むことです。「読誦」というのは、黙読するのではなく、声に出して読経することを言います。お経は、声に出して読むことが正しい行いとされるのです。
黙読というのは、ある意味、自分一人の世界で満足していく行いです。黙読している内容は、自分一人にしか届きません。しかし、声に出して読むというのは、そこに集う人々と一緒に仏様のお心を共有することができます。仏様のお心は、みんなで味わい、みんなで喜ぶところに大切な意味があるのです。しかも、声に出して読むというのは、黙読のように、単に頭で理解するだけではありません。その声を耳に聞き、肌で感じ、全身で仏様のお心に触れていくことができます。
仏様のお心というのは、文字でのみ表現されるものではありません。お寺の空間やお仏壇のお飾り、お香などの薫り、仏教徒の雰囲気、そして、読経の響き、あらゆる形を持って、仏様のお心は、私に届けられるのです。それらを感受していくのは、それぞれの心です。仏様のお心は、理屈では説明しきれません。例えば、初めて口にする果実の美味しさを、理屈で説明しきれないようなものです。この美味しさを伝えるには、食べてもらわなければ伝わりません。理解することよりも味わうことが、仏教でも求められるのです。
本願寺中興の祖と讃えられる蓮如上人は、本来、僧侶のみが行っていた読経を、一般の御門徒も行えるものに整えていかれました。『正信念仏偈』が、その代表です。僧侶も御門徒も関係なく、みんなで読経できる形に整えられたのです。それ以後、浄土真宗門徒は、朝夕のお勤めが日課となりました。日常のお勤めを通して、数知れない人々が、阿弥陀如来のお慈悲を味わってこられたのです。
「仏様のことが分からない」と嘆く必要はありません。分かることよりも味わうことが大切です。できることから丁寧に、仏様のお心を味わえる日々を大切に過ごさせていただきましょう。
【住職の日記】
先日、ある御門徒の葬儀の折、前日に喪主様から、次のようなお尋ねをいただきました。
「明日の葬儀で、参詣者の皆様に御礼のご挨拶をさせていただくのですが、お浄土のことを言う場合、『お浄土へ旅立った』という言い方でよろしいですか?それとも、他の言い方の方がいいでしょうか?どのように言うのが、正しいのでしょうか?」
大きな悲しみの中、流れに任せてしまうのではなく、浄土真宗のみ教えに正しく順おうとされる丁寧なお姿に、頭が下がる思いをさせていただいたことでした。
このお尋ねに対しては、「『お浄土へ参った』の方がよろしいかと思います。」とお答えいたしました。「お浄土へ旅立つ」と「お浄土へ参る」、この二つの表現は、同じようで大きな違いがあります。「旅立つ」という言葉は、「今から目的地に向かい始める」という意味を表わしています。お浄土という目的地へ旅立つのは、死んでからでしょうか?いえ、そうではありません。お浄土へ旅立つのは今なのです。
そもそも、私達は、目的地を持って、この世界に生まれてきたわけではありません。目的地を持たない姿を「迷っている」といいます。わけが分からないまんま、手のつけようのないところで生まれてきた私達は、何のために生きるのでしょうか?この私の命は、何のためにあるのでしょうか?一生懸命に生きた人生は、死んで終わっていきます。死んで終わっていく人生に、どんな意味があるのでしょうか?このような誰にも答えようのない素朴な命の問いを、誰もが一度は心に持ったことがあるのではないでしょうか?人は死んでから迷うのではなく、生まれた時から迷っているのです。迷っている自分、どこか落ち着かない自分に問いを持つことが、人が人である所以でしょう。人は、本来、生まれながらにして、正しい人生の方向性、落ち着いて歩むことの出来る目的地を求めているのです。
この点について、人と仏様との違いを伝承するものに、お釈迦様の誕生の物語があります。伝承では、お釈迦様は、お生まれになってすぐ立ち上がり、七歩歩かれたとされます。そして、天と地を指さされ「天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之」とお話されたとされています。これは、とても事実とはいえない伝承ですが、伝承というのは、事実かどうかはあまり問題ではありません。大切なのは、どんな意味が込められているのかということです。これは、仏様として讃えられるお釈迦様が、普通の人とは違い、生きる意味と人生の目的をしっかりと確認し、実に落ち着いた人生の歩みをされていたことを教えているのです。
「天上天下唯我独尊」というのは、「世界中で私ほど尊い者はいない」という意味です。その理由が、次の句です。次の句は「三界皆苦我当安之」です。これは、「世界中の命ある者は、みんな苦しみを抱えている。その苦しみ、悲しみを安らかにするために私は生まれてきたのだ」という意味です。
お釈迦様に、私は何のために生まれてきたのでしょうか?と問えば、「お前は、人を初めとした様々な命を幸せにするために生まれてきたんだ」と教えてくださいます。この人生の目的は何でしょうか?と問えば、「あらゆる命が抱える苦しみや悲しみを癒やし、安らかにしていくことが、生きる目的だ」と教えてくださいます。人として最も尊く正しい生き方とは、仏様のように、あらゆる命の悲しみに共感し、あらゆる命の安らぎを願いながら生きることであると教えるのが、仏教なのです。
実は、お浄土に生まれていくことを人生の目的とさせていただくことも、基本的には同じことなのです。お浄土というのは、「浄らかな命の領域」という意味です。浄らかというのは、微塵の我も雑じることなく、あらゆる命を慈しみ、あらゆる命を悲しんでいくことのできる状態のことです。そのような浄らかな状態であることを目指して生きることが、お浄土を人生の目的地として生きるという姿なのです。
お浄土に生まれるというのは、天国という言葉で表現されるような、悲しみや苦しみがなく、自分の都合が満たされていくだけの世界を目指すことではありません。むしろ、浄土とは、人の悲しみや苦しみを引き受けていく世界であり、それは、あらゆる人、あらゆる命を愛おしく愛することのできる世界なのです。
生まれながらにして、深い煩悩と迷いを抱える者に、正しい人生の方向性を教えようとするのが浄土の教えであり、阿弥陀如来の救いの世界なのです。
お浄土へ生まれていくような尊く正しい人生を、今、歩み始めましょう。