【住職の日記】
連日、ウクライナでの悲惨な現状がニュースで流れています。人の命が、桁違いに亡くなり、悲しみが渦巻いていく映像に、心が痛みます。人間は、何千年経っても、同じ過ちを繰り返すものであることを教えられています。自らの都合を貪り、都合を邪魔するものに怒りを起こしていく人間の根本煩悩は、地獄という世界を作り出していきます。仏様が教えてくださっていることを、今一度、大切に聞かせていただく必要があるように思います。
日本に本格的に仏教を伝えた最初の人は、聖徳太子だと言われています。それは、仏像や寺院といった文化的なものを伝えたという意味ではありません。お釈迦様のみ教えの精神を正しく受け止めていかれた最初の日本人が、聖徳太子なのです。
それは、有名な『十七条憲法』に表われています。『十七条憲法』の第一条は、「和らかなるをもつて貴しとなし・・・」という有名な言葉から始まります。本当に貴いものとは、天皇や貴族のことではなく、みんなが思い合う平和な状態のことを言うのだというのです。そして、それに続く第二条は、「篤く三宝を敬ふ。三宝とは仏・法・僧なり。」という言葉で始まります。平和が成立する一番の根源は、仏・法・僧の三つの宝を敬うところにあるというのです。仏とは、あらゆる命を心から慈しみ悲しむことができる真実に目覚めた仏様です。法とは、その仏様が、私達を正しい方向へと導くために教えてくださるみ教えです。僧とは、その仏様のみ教えを聞き敬う人々の集団のことです。この三つを宝物とし、心の拠り所として人々が生きたとき、初めて社会に本当の平和が成立すると教えてくださったのです。そして、その後には、「それ三宝に帰りまつらずは、なにをもつてか枉れるを直さん。」と示されます。この仏・法・僧の三宝を拠り所としなければ、自己中心的に曲がった根性は、決して正されないと言われます。
自己中心的に曲がった根性については、第十条で示されていきます。第十条は、「忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふを怒らざれ。」という言葉で始まります。難しい表現で語られていますが、人から気に入らないことを言われたからといって、腹を立ててはならないということです。その後には、「人みな心あり、心おのおの執ることあり。」と続きます。みんな心というものを持っていて、みんなそれぞれに思っていることが違うというのです。その後には、「かれ是んずればすなはちわれは非んず、われ是みすればすなはちかれは非んず、われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ。」と続いていきます。相手にとって正しいことが、そのまま私にとっても正しいこととは限りません。逆に、私にとって正しいことが、相手にとって正しいこととは限らないのです。そして、それは、私が決して間違いを犯さない聖人なのでもなく、相手が、必ず間違いを犯す愚か者なのでもないのです。お互いに過ちを犯しやすい普通の人だと言われているのです。また、その後には、「是く非しきの理、たれかよく定むべき。」と言われています。普通の人間には、誰が絶対的に善であり悪であるのか、是が非を決めていくことなど、できはしないんだと言われるのです。
この普通の人間が、仏・法・僧の三宝を見失ったとき、どんな恐ろしいことが起こっていくか分からない。だから、常に仏様のみ教えを拠り所として生きることを忘れてはならないと、聖徳太子は、当時の最高権力者として示していかれたのです。
お釈迦様は、人を苦しめる根源は、自らの煩悩にあることを教えてくださいました。平常時は、穏やかな流れの河も、濁流となれば、止める術はありません。一度、激しく燃え上がった炎も、簡単には消し去ることはできないのです。人は、平常時は、穏やかに見えても、自らの貪りの濁流に呑み込まれ、自らの怒りの炎に激しく焼き尽くされていく悲しさを抱えています。
人は、自分の力で自分をコントロールできない弱い存在です。そのことを親鸞聖人は、煩悩具足の凡夫という言葉で表現されていかれました。しかし、煩悩具足の凡夫は、弱く深い悲しみを抱えるが故に、阿弥陀如来の救いの目当てとなったのです。私達は、見捨てられた存在ではありません。仏様から願われている存在なのです。
今、世界は、大きな悲しみに包まれています。この悲しみは、弱いが故の残酷な人間が作り出したものです。私の中にも、同じように、大きな悲しみを生み出していく恐ろしさがあることを知っておくべきでしょう。仏法を拠り所として、自分自身の姿を見つめ直す日々を大切にさせていただきましょう。
【住職の日記】
先日、あるお寺の御住職から、次のようなお話を聞かせていただきました。それは、その御住職が、御門徒のお宅にご法事のお勤めに上がられた時のことです。家の前に車で到着すると、ご親戚の方々が、家の中に上がらず、玄関の前で集まってお話をされていたそうです。御住職が、ご親戚の方々に「どうされましたか?」とお声を掛けると、ご親戚の方々が「鍵が閉まっているんです。インターフォンを鳴らしても、電話をしてみても、何の返事もないんです。」とおっしゃいます。とりあえず、鍵の業者さんに依頼をし、玄関の鍵を開けてもらったそうです。すると、その家のご主人は、台所のテーブルに突っ伏したまま亡くなっておられたといいます。警察の検死の結果、お食事中に、心臓の血管が詰まり、突然死をされたということでした。亡くなってから、数日経過していたそうです。そのご主人は、一人暮らしだったそうですが、もし、ご法事の約束をしていなければ、誰にも見つけられることなく、さらに月日が経過していたことでしょう。孤独死という現実が、身近にもあることを教えられた悲しくなるお話でした。
現代は、「孤独」という言葉が、世の中に溢れているような気がします。個人の権利が守られる一方で、他人との繋がりが希薄になっているように思います。その傾向は、コロナ禍の中で、さらに顕著になってきているのではないでしょうか。他人に無関心になっていく社会は、どこか病的な感じさえします。命ある者にとって、孤独ほど、恐ろしいものはありません。
仏教において、悟りを開き仏に成っていくというのは、この孤独を破っていく世界に目が開かれていくことだと思います。仏様の悟りの内容は、私達には思いはかることのできないものですが、学問の世界では、それを「縁起の道理」と定義しています。お釈迦様は何を悟られたのか、それは縁起の道理を悟られたと言われているのです。縁起の道理というのは、日本では「ご縁」という言葉と共に、日本人の感性に根付いてきました。私が、不思議な繋がりの中に生かされているという感性です。「縁起」というのは、「縁って起こる」という意味ですが、この世界のあらゆる命や出来事は、縁って起こっているものしかないというのです。縁って起こるというのは、関係し合っているということです。
例えば、蝋燭に灯っている火を考えてみましょう。火というのは、火だけの力で発生し存在することはできません。何もないところから火は出ません。まず引火する蝋がなければなりません。その蝋も、様々な働きの中で用意されていきます。しかし、蝋だけがあっても火は発生しません。マッチやライターが必要です。また、真空では火は発生しません。空気が必要です。その空気も風に変わる環境では火は灯りません。風の吹かない穏やかな空気が保たれる場所でなければなりません。その空気も、広大な宇宙の中で、どの星にも当然のようにあるわけではありません。地球に空気があるというのも、果てしない縁の重なり合いの中で、たまたまここに存在したのです。少し考えても、蝋燭に灯っている火というのは、思い測ることのできない様々なご縁の中で実現しているものなのです。そして、灯った火もまた、様々なものに関係していくのです。命も同じ道理です。一つの命が実現している根っこには、思い測ることのできない様々なご縁の重なり合いがあります。網の目のような無数のご縁の重なりは、途切れることはありません。無限の広さと深さを持っています。どんな人間、どんな生き物も、みんな深いところで繋がりを持っているのです。
仏様というのは、縁起の道理を完全に悟り、私とあなたという区別さえない世界に目が開かれた方を言うのです。あらゆる命が我が一人子のように愛おしく、あらゆる命の悲しみが仏の悲しみなのです。そんな仏様に死はありません。仏様という命は、個体の枠に収まるものではないからです。個体の命が消滅しても、命そのものは、無限の広さと深さを持つものなのです。
孤独になるというのは、真理とかけ離れた悲しい姿です。しかし、迷いの凡夫である私達は、真理に暗く孤独に落ち込んでいきます。仏様のみ教えというのは、「一人ではないのだよ」という一言に尽きていくのかもしれません。仏様のお言葉を聞かせていただくというのは、孤独が破られていく世界に目が開かれていくということでしょう。
孤独感が深まる時代の中に、仏様のみ教えを聞かせていただくことの大切さを、改めて感じます。コロナ禍の中、仏様のみ教えに耳を傾け、生かされている身の尊さを喜ばせていただきましょう。
【住職の日記】
今年もコロナ禍の中、多くの皆様の御報謝をいただき、無事、親鸞聖人の御正忌報恩講が勤まりました。連日、過去最高の感染者数を更新する中、本当に、たくさんの皆様がお参りくださいました。無病息災を祈るためではなく、多くの方々が、御恩報謝のためにお参りされ、仏様のお心をお聴聞される報恩講の光景は、なによりも尊いものだと思います。
この度の御講師をお願いした赤井智顕先生は、住職の大学院時代の後輩にあたります。三日間、とても丁寧に楽しくありがたくお話くださいました。その中で、二日目の夜座でのお話をご紹介します。それは、先生が、非常勤講師を務めておられる京都の龍谷大学で経験されたお話でした。
龍谷大学の歴史は、一六三九年(寛永十六年)に西本願寺内に設けられた僧侶を教育する学校が始まりです。現在でも、浄土真宗本願寺派の総長が学校法人の理事長を務め、浄土真宗を建学の精神として大学教育を進めています。しかし、現在は、一〇学部三〇学科を擁する総合大学に成長し、学生数も二万人を超えます。二万人の学生のほとんどは、お寺とは関わりのない一般家庭の子ども達です。入学した大学が、たまたま浄土真宗を建学の精神としている学校だったという学生がほとんどなのです。そんな学生のほとんどは、経済学部や法学部などの一般の学生です。仏教を学びにきた学生ではありません。しかし、龍谷大学は、二万人を超える全ての学生に対して、仏教学を必修科目としているのです。経済学部の学生も理工学部の学生も、仏教学の授業を受講し、仏教学の試験に合格しなければ、卒業できない仕組みにしているのです。受講しなければ卒業できないので、学生達は、仕方なしに仏教学の授業を受講します。そんな学生達を前に、仏教を、どうやって伝えていくか、講師の先生達も本当に頭を悩ませているといいます。
ある日のことです。仏教学の講義を終え、教室で帰りの支度をしているとき、受講していた学生から質問があったそうです。その質問は、「仏教を学んで、何の役に立つのですか?」というものだったそうです。自分の将来に役立たせるために、経済学や法律学を学びに大学に入学したという学生は多いでしょう。そんな学生達からすれば、社会で役に立ちそうにもない仏教を強制的に学ばされることは、苦痛以外の何者でもなかったのかも知れません。そんな学生に対して、次のような会話を交わしたといいます。「一緒にいるのはお友達?」「はい。」「仲いいの?」「まあ、仲いいですね。」「役に立つから仲がいいの?」「いや、、、」「お母さんのことは、大切に思っている?」「はい、、」「お母さんも役に立つから?」「いや、、、」「役に立つか立たないかで、どんな物事も判断していくのは、どこか判断する物差しが歪んでいるんじゃないかな。仏教は、そんな自分が持っている物差しを疑い、仏様の物差しを学ばせてもらうんだよ。」
こんな会話だったそうです。その学生は、何かに気づいてくれたような、はっとした表情をしてくれたそうです。仏様のお話を聞いていくことの大切な意味を伝えてくださった、とても味わい深いお話でした。
親鸞聖人が尊敬された七人の高僧の中に、善導大師というお方がおられます。中国の唐の時代の方です。その善導大師が遺されたお言葉に「学仏大悲心」というものがあります。「仏教を学ぶというのは、仏様の大きな悲しみを学ぶことである」という意味です。大きな悲しみというのは、無数の命が抱える無数の悲しみを、共に限りなく悲しんでいく心です。役に立つ物だけが、大切なのではありません。何の役にも立たないような存在も、仏様には、愛されるべき尊さを持った存在なのです。
人間が当たり前に持っている我欲が作り出す浅ましい心の世界は、私達を方向性のない無秩序な迷いの世界に落とし込めていきます。方向性がないというのは、何のために生まれきたのか、何のために生きるのか、死んでどうなっていくのか、全く分からず、生き様も死の味わいも、何も定まっていかないということです。けっして思い通りにはいかない人生の中で、どれだけのものが、私の役に立つものだったでしょうか?私が切り捨て、見ないようにしてきた役に立たない悲しみや悔しさの中にこそ、大切にすべき多くの意味があるのかも知れません。それは、仏様のお心を学ぶ中に、一人一人が、それぞれの人生の中で味わい気づいていくことでしょう。
お寺の御法座は、役立つ知識を増やすために、難しい話を聞きに行くのではありません。方向性のない私が、新しい気づきと明るさをいただきに行くのです。今年もコロナ禍が続く中ですが、たくさんのお参りをお待ちしております。
【住職の日記】
明けましておめでとうございます。今年も、お念仏に包まれる中に、一日一日を丁寧にいただいて参りましょう。
先日、ある御門徒の方の二十五回忌のご法事にお参りさせていただいた時のことです。施主様から二十五回忌を迎えるお父様について、次のようなお話を聞かせていただきました。
「来月は、御正忌報恩講ですね。コロナが、早く落ち着くといいですね。父は、御正忌報恩講の三日間は、正法寺に泊まり込んでお聴聞していました。昔は、多くの人が、御正忌報恩講の三日間、お寺に泊まり込んでお聴聞していたみたいですが、父は、最後まで泊まっていた人の一人です。お寺に迷惑がかかるからと家族が止めても、最後までお寺に泊まることをやめようとしませんでした。最後は、病院に入院していましたが、お寺の御法座があるときには、外出許可を取って、病院からお寺にお参りしていました。本当に、お聴聞が好きな父でした。懐かしいですね。御正忌報恩講を迎えると、いつも父のことを思い出します。」
「お聴聞」ということを、人生の柱にして生きられた先人の方の尊いお姿に、頭が下がる思いをさせていただいたことでした。
浄土真宗において、仏様のみ教え、そのお心を聞かせていただくことを「お聴聞」といいます。そして、この「お聴聞」が、浄土真宗において、最も大切な行いになります。浄土真宗では、特別な戒律や修行を課すことはありませんが、だからといって、何もしなくてもいいということはありません。心がけてしなければならないことがあります。それが、お聴聞です。
聴も聞も同じ「きく」という言葉ですが、聴は、「明らかに聴く」という意味があります。「聴く」というのは、自ら自発的に求めて聴いていくことをいうのです。一方で、聞は、「そのまま聞く」という意味があります。「聞く」というのは、自ら聴くのではなく、聞こえてくるものをそのまま素直に聞くことをいいます。仏様のお心を聞くには、それを求める心がなければ聞くことはできません。仏様に無関心で、仏法を求めていない人が仏様のお心を聞いても、何も響いてこないでしょう。話だけが素通りしていくだけです。一方で、仏様のお心を求めていたとしても、自分の都合よく仏様のお心を聴いてしまうと、そのまま聞くことにはなりません。仏様は、本当のことを教えてくださいますが、本当のことは、私にとって必ずしも都合のいいことばかりではないのです。自分の価値観を主体にして、仏様のお言葉を受け止めてしまうと、仏様のお心は自分の影に隠れてしまいます。「お聴聞」というのは、聴と聞とがピタッと合わさる中で成立する非常に繊細な行いなのです。
江戸時代末期、下関市の六連島に「おかるさん」と呼ばれた尊い念仏者がおられました。夫の浮気がご縁となり、仏法を真剣に求めて聴くようになったと言われています。現在でも六連島には、「身投げ岩」と呼ばれる、おかるさんが、投身自殺を図ったと言われる場所があります。そんな、おかるさんも、最初は、求めて仏法を聴いても、仏様のお心は聞こえてこなかったといいます。聞こえてくるのは、愛憎に狂う自分の心だけです。お慈悲が聞こえてこず、救われようのない自分に、何度も絶望したといいます。しかし、真剣に仏法を重ねて聴くうちに、だんだんと自分の悲しい姿が見えてきたといいます。それは、人を呪い、怨み、妬まねばならない自分自身の悲しさです。夫もその浮気相手も、地獄の底へ突き落としてやりたいと思い続けている、その自分の罪業の深さを思うと、地獄の底へ落ちていかなければならないのは、むしろこの自分ではないか。罪業深重という言葉が、我が身のこととして響いてきたというのです。自分の都合ではなく、本当のことが聞こえてきたということです。
おかるさんは、晩年、こんな詩を詠んでいます。 「重荷せおうて山坂すれど 御恩思えば苦にならず」 人生というのは、様々な重荷を背負って、山坂をくぐり抜けていかなければなりません。人間は、生きている限り煩悩を燃やし続けます。それだけに様々な苦悩を背負っていかなければならないのです。しかし、その苦悩の重荷を、単なる愚痴の種にしてしまわずに、仏法を味わう尊い縁として、人生これ念仏の道場なりと頂いていくような心の眼が開かれていくのが、お聴聞を柱とした浄土真宗の仏道の姿なのです。
今年も、御正忌報恩講をお迎えします。お聴聞を人生の柱として生き抜かれた多くの先人の方々のみ跡を慕い、親鸞聖人の御遺徳を味わいながら、我が身のこととして、大切にお聴聞させていただきましょう。
先日、保育園関係の仕事で山口市の職員の方と雑談をさせていただいた時のことです。その職員の方も、浄土真宗の御門徒ということでしたが、四国の八十八カ所巡りをされたことを、楽しくお話くださいました。四国の八十八カ所巡りは、真言宗の開祖、弘法大師空海のゆかりの寺院を徒歩で巡り礼拝を行う、真言宗の修行の一つです。本来は、弘法大師を敬う真言宗の修行僧が行うものでしたが、江戸時代辺りから、病気平癒などの現世利益を求めて、一般の民衆も行うようになったようです。現在では、観光地化され、八十八カ所巡りのバスツアーまである状況です。その山口市の職員の方も、観光旅行として八十八カ所巡りをされたそうですが、その中で、興味深いお話をしてくださいました。
それは、沿道にお住まいの方々の心遣いについてのことでした。現在は、観光客用に、修行僧と同じ白装束が、売店で売られているそうです。職員の方も、売店で白装束を購入し、修行僧と同じ姿で歩かれたそうですが、沿道にお住まいの方々が、御布施としてお金を包んでくださったり、食べ物を持たせてくださったりするそうです。申し訳なく恥ずかしい思いを持ちつつも、宗教的な温かい雰囲気も味わうことが出来たと言います。
この方との雑談を通して、改めて宗教というものについて、考えさせられたことでした。宗教という言葉が意味する範囲は多岐にわたります。しかし、仏教、キリスト教、イスラム教の民族の枠をはみ出して、人間の根本的な不安に応えていく世界宗教と言われているものに共通するのは、清らかな聖なるものに対する敬いの心だと思います。
その意味では、現在の四国の八十八カ所巡りの現状は、宗教とは言いがたいものです。なぜなら、歩いている方々に、必ずしも弘法大師に対する敬いの心があるわけではないからです。弘法大師が、どんな方なのかも、よく知らない人も多いのではないでしょうか。ただ自分の楽しみのために八十八カ所を巡ったり、また、病気平癒や家内安全など、自分と自分に関係のある者の都合を願うだけであれば、それは、自らの欲望に促されているに過ぎません。それは、高野山に籠もられて、自らの欲望に促されていく浅ましい姿を真っ向から否定された弘法大師の姿とは、全く異なるものです。しかし、八十八カ所巡りも、本来は、現在のような姿ではなかったのでしょう。心から清らかであろうとした弘法大師の尊い姿を敬う、真面目な修行僧の方々が、礼拝をしながら歩かれていたのです。そのような昔の清らかな残り香が、沿道の方々の温かい心遣いなのでしょう。
「敬う」という心は、ただ「大切にする」という心とは異なります。鬼のような人間にも、何かを大切にする心はあります。しかし、「敬う」という心は、自己の欲望を貪る鬼のような人間の中には、存在しない心です。それは、「頭が下がる心」と言えばいいでしょうか。自らを犠牲にして、他の命を慈しんでいく聖なる存在を前にしたとき、自らの欲望に占領されている俗なる者は、その存在の有り様に心打たれ、心地よい敗北感を味わうのです。屈辱感や恐怖心と共に頭を下げる世界は、修羅や畜生の世界にもあるでしょう。しかし、心が感動に満たされる中に、深い喜びと共に頭が下がっていく世界は、人間境涯の上に現れる本物の宗教の世界だけです。本来、本物の宗教は、豊かな感受性の上に現れる、実に人間らしい営みなのです。
しかし、そんな宗教も、常に世俗化していく危険性をはらんでいます。浄土真宗も例外ではありません。仏様を敬う心、親鸞聖人を敬う心が失われ、ただ形だけが残っていく危険性を、浄土真宗も常にはらんでいるのです。敬う心が失われるというのは、そこに感動や喜びが亡くなっていくということです。人生において、頭が下がるものに出会ったことがないというのは、出会ってきたもの全てが、つまらないものだったと言ってもよいと思います。頭を下げようとも思わない、そんなつまらないものばかりを見てきた人生は、やっぱりつまらない人生です。思い通りにはならない困難な人生において、頭が下がるほどの清らかなものに出会っていくところに、豊かな感受性が恵まれた人としての本当の喜びがあるのではないでしょうか。
形だけに終わることなく、一人ひとりが、如来様の清らかなお慈悲を大切に聞き、丁寧に頂いていく毎日を大切にさせていただきましょう。
先日、正法寺が運営する嘉川保育園に、定時制高校の生徒十名が、職場体験に来てくれました。一昔前の定時制高校は、社会人が入学することも多かったようですが、現在は、ほとんどが一般の高校生と同じ年齢の子ども達です。しかし、現在の定時制高校は、不登校等の様々な問題を抱える中学生が、進学するケースも多いそうです。この度、嘉川保育園に職場体験に来てくれた生徒達も、そのほとんどが、中学生時代、不登校等の様々な問題を抱えた経験のある子ども達だということでした。
その中で、とても暗い目をした一人の男子生徒がいました。保育室に入っても、部屋の隅で座ったまま園児と関わろうとしません。やる気がないのではなく、自分から関わることに怖さを感じているようでした。おそらく、これまで様々な人間関係の中で、人知れない苦しみを抱えてきたのでしょう。怯えたような暗い目が、そのことを物語っているようでした。ところが、その男子生徒の顔が、とても幸せそうな穏やかな表情になった瞬間があったのです。それは、一歳の女の子が男子生徒の膝に座ったときでした。一歳の女の子は、遊びに来てくれた高校生のお兄さんに、ただ甘えたかったのでしょう。ニコニコしながら、そこに座るのが当たり前のように、ちょこんと男子生徒の膝に座ったのです。その瞬間、それまで暗い目をしていた男子生徒の顔が、照れたように赤くなり、とても穏やかな笑顔になったのです。職場体験が終わった時、その男子生徒に一言「よかったね」と声をかけさせていただきました。顔を赤くして「はい」と大きく頷いた恥ずかしそうな笑顔に、こちらも、とても幸せな気持ちをいただいたことでした。
本願寺中興の祖と讃えられる蓮如上人のお言葉に「仏法は無我にて候」というものがあります。仏教というのは、無我なるものに救われていくことを教えるものであり、また、自らも無我なる存在へと育てられるみ教えであるというのです。我というのは、「我を張る」や「我がまま」という言葉があるように、自分の都合を貪っていく煩悩の根本になるものです。我が、人を傷つけ、自らも傷つけていくのです。喧嘩というのも、お互いの我と我とがぶつかり合うことです。どちらかが、我を収めれば、喧嘩も収まります。しかし、実際は、我を収めるというのは、なかなか難しいことです。親鸞聖人も「凡夫といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、」とお言葉を遺されています。私達は、命終わるその瞬間まで、自らの我に苦しめられていく存在なのです。
自らの我に縛られ、我に振り回されていく私達は、何によって癒やされ救われていくのでしょうか。それは、無我なるものだと仏教では教えてくださるのです。人間の境涯で言うと、無我に近いものが、子どもです。個人差はありますが、小さな子どもほど、無邪気な姿を見せてくれます。行動に、余計な計算や計らいが混じりません。我の混じらない純粋な行動は、我を持つ者を和らげ包み込んでいきます。無我に近いものに触れると、人は、安らぎを覚えるのです。
親鸞聖人が、『教行信証』の中で、阿弥陀如来のお慈悲を「大地のごとし」と大地に喩えておられるお言葉があります。大地というのは、自己主張をしません。大地に拒まれる命はありません。どんな命も、大地というのは受け入れ、そして、育んでいくものです。人間を見て、一目散に逃げていく野生の動物はたくさんいますが、大地を見て逃げる動物はいません。どんな動物も、大地には安心して身を預けています。それは、大地が無我なるものだからです。我を持つものは、無我なるものに支えられ包まれているのです。
阿弥陀如来のお慈悲は、無我なる真実の心なのです。真実というのは、変わらないということです。子どもの純粋な心も、成長と共に我に汚されていきます。大地も形あるものである限り、永遠ではありません。また、大地は心を持っていません。しかし、如来様のお慈悲は、変わることのない無我なる心なのです。本来、仏法のご縁に触れるというのは、小さな子どもに、ほっと心が溶かされていくように、大地に動物が安心して身を預けていくように、如来様の無我なる言葉に触れて、自らの我が溶かされ安らぎを頂いていくと共に、苦しみ多いこの人生が、絶対安心なものに支えられ育まれていることを知ることなのです。
人間境涯は、我の渦巻く恐ろしい世界です。如来様の無我なるお心に触れていく温かい時間を大切にしたいものです。
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先日、ある御門徒の方から、とても素敵な習慣について、お話を聞かせていただきました。それは、人に手渡すお菓子や飴玉を、常にお家の手の届くところに用意しているというものです。お菓子を手渡すのは、お家に訪ねてこられたご友人だけではありません。荷物を運んできてくださる宅急便の職員の方や手紙を届けてくださる郵便局の職員の方などもです。荷物を届けてくださった宅急便の職員の方に、「ありがとうございます。お体気をつけてくださいね。」という言葉と一緒に、感謝の想いを込めて、お菓子や飴玉を手渡すのだそうです。普段、何も感じずに流してしまっている自分自身を恥ずかしく思いながら、ありがたく聞かせていただいたことでした。
親鸞聖人が開かれた浄土真宗の教えの真髄を一言で言い表すならば、それは「本願他力」という言葉になるでしょう。本願というのは、阿弥陀如来様の根本の願いという意味です。それは、純粋な慈しみと深い悲しみです。私が抱えるどうしようもない悲しみや苦しみに深く共感し、私の本当の安らぎを深く願い、慈しんでくださる心です。他力というのは、その願いから起こされる力、働きという意味です。親鸞聖人は、この世界は、如来様の慈しみと悲しみで満たされていることを教えてくださっています。そして、我を張って一生懸命生きようとする私は、その慈しみと悲しみの働きの中で生かされ育てられているのだといいます。この如来様の願いを聞く者にとって、私を取り巻く日常のあらゆる事は、如来様の深い愛情が形を表わしている温かい世界です。あらゆる事が尊く、あらゆる事が当たり前ではなく有り難いのです。
しかし、自己中心の日暮らしは、私に本当のことを隠してしまいます。本来、喜ぶべきものが喜べず、尊ぶべきものが尊べずに、ただ自己の欲を満たすことのために人生を虚しく過ごしてしまうのです。人の欲望には限りがありません。満たされていても、いつまでも満足しないのです。不満が募り、愚痴がこぼれます。そこには、喜びはなく、ただ自分の心の渇きだけがあるのです。あらゆるものが当たり前であり、あらゆるものに無感動の日常に覆われていきます。これが、仏教で言う人間が抱える闇というものです。真っ暗な闇は、あらゆるものを私から隠し、見えなくするのです。
ご法事の折に御門徒の方々とご一緒に拝読させていただく『仏説阿弥陀経』の中には、「八功徳水」や「黄金為地」というお言葉が説かれています。仏様が受け止めていかれる真実の命の世界、浄土の様子について説かれたお言葉の一つです。「八功徳水」というのは、「無限の働きをもった水」という意味です。「黄金為地」というのは、「黄金に輝く大地」という意味です。水も大地も、私達が普段目にしているものと同じものです。特別な水や大地があるわけではありません。ただ、同じ水や大地も、仏様が見れば、「八功徳水」であり「黄金為地」であることが説かれているのです。水が蛇口から出ることが当たり前、大地の上で過ごしていることが当たり前の人には、「八功徳水」も「黄金為地」も闇の中に隠されて見えないのです。本来、水が蛇口から出てくるというのは、とてつもなく有り難く尊いものなのです。なぜなら、水は、私の命にとって欠かすことの出来ないものでありながら、一滴の水でさえ、自分の力で作り出すことができないからです。大地も同じです。大地がなければ、私は、ここに存在することすらできません。毎日、食事として頂く様々な命も、根本的には大地に育まれたものです。無数の命を育む広大な大地が、私の足下にあることは不思議です。決して当たり前ではありません。黄金に輝くほどの尊い恵みの上に、私の命が生かされていることが「黄金為地」の一言の中に説かれているのです。
私は、私の自力の中で生きているのではなく、本願他力の中に生かされている尊い存在であることを、親鸞聖人は教えてくださっているのです。他力の中に生かされている人には、喜びがあり感動があります。感動があるところには、必ず感謝の想いがあります。感謝の想いがあるところには、必ず他者に対する思いやりの心があります。阿弥陀如来様の願いを聞く中に、あらゆるものに感動し、あらゆるものに感謝し、あらゆる命に思いやりの心を持つ、そんな姿が、浄土真宗の念仏者の姿なのでしょう。
この世に生まれてきて、何を聞き、何を知るべきなのか、そのことを『仏説阿弥陀経』の浄土の経説は、教えてくれています。宅急便のお兄さんも、郵便配達のおじさんも、どんな人も有り難い人として輝いて受け止めていける、そんな感動溢れる毎日を、お念仏申す中に、大切にさせていただきましょう。
先日、初盆のご縁でお参りさせていただいた時のことです。ご遺族の方から、次のようなお話を聞かせて頂きました。
「昨年のお盆は、まだ母がいたんだなと思うと、色んなことを思い出して、涙がでてきました。本当にいなくなってしまったんだなと改めて感じました。やっぱり寂しいですね。時間が経っても寂しいです。でも、御住職さんのお勤めを聞きながら、母はお浄土に生まれていったんだなと思いました。先立った父や子どもと、お浄土でまた会えているのかなって。寂しいですけど、母にとっては、昨年、命終わって、お浄土に生まれさせてもらったことは、幸せだったのかなって思います。」
私達は、命終わることを、どのように受け止めていけばよいのでしょうか。一般的には、歳を十分重ねて命終わることを「大往生」と言ったりします。ここでの「大往生」という言葉は、本来、仏教で説いている意味とは違うようです。「十分に人生を生きて、やり残したことはないだろう」というぐらいの意味でしょうか。
しかし、人より長く人生を生きた者のことを、大往生だと讃え、人より短く人生を終えた者のことを、かわいそうだと言うのは、いかがなものでしょうか。それは、結局のところ、長く生き残った者が幸せということでしょう。実際、生き残った者が幸せなのか、死んだ者が幸せなのか、本当のところは、分からないはずです。誰もが死を抱えて生まれてくるのです。死なない命はありません。しかも、誰がいつ死んでも不思議ではないのです。
お釈迦様は、生と死は別のものではないと教えておられます。私達は、生と死とは事実として別のものとしか思えません。生きているということは死んでいないことであり、死んでいるということは生きていないことだからです。それを同じだと受け止めていくのは、私には無理です。真理を悟り仏に成るというのは、やっぱり果てしない世界だと感じます。しかし、ここに、意味という言葉を加えるとどうでしょうか。生と死は別の意味を持っていない、生と死は同じ意味を持っているということです。生きることを、本当に幸せだと受け止めている人は、死んでいくことの中にも大切な意味を受け止めている人ではないでしょうか。死んでいくことは無意味であり、あってはならない不幸だと受け止めている人の人生は、楽しそうに見えても、そこには言い知れない不気味な暗い影がさしていると言わざるをえないでしょう。別のものではないということは、生が死を意味づけ、死が生を意味づけていくということなのです。
古今東西、人々を本当の意味で救ってきた宗教というのは、人生をどのように幸せに生きるかだけを説くものではなく、死んでいく中にも、生きることと同じ尊い意味を与えてきたものだと思います。死の本当の意味を問わない思想は、必ず死んでいく人間を、本当の意味で救う力などないはずです。本来、思い通りにはならないはずの人生の状況に対して、こうすれば幸せになれると、力を入れて教えていく宗教には気をつけるべきです。
仏教の中でも、浄土の教えは、死んでいく中に浄土に生まれるという意味を与えるものです。浄土に生まれるというのは、天国や楽園に生まれるのとは意味が違います。天国や楽園は、煩悩を抱えた人間の欲望が作り出していく世界でしかありません。思い通りになりたいという欲求が描いていく世界だからです。楽園と地獄は、実は紙一重の世界です。飽くなき欲望が、深い苦しみを生んでいくからです。
浄土という世界は、あらゆる命を慈しみ、あらゆる命の悲しみに震えていく清らかな仏様が描き出していく世界です。自分が都合よく生きるために生まれていく世界ではありません。自分以外の様々な命を、本当に慈しみ愛する者に成るために生まれていく世界なのです。お浄土で会うというのも、この世界で好きな人と会うのとは違います。仏様の命を恵まれた私が、同じく仏様と成られた尊い方々と敬い合う中で、一つに会わせていただくのです。それは、愛し愛される中に、命が一つに溶け合っていく世界でしょう。あらゆるものが自分の一人子のように愛おしく輝いていく世界です。そんなお浄土に続いている今だからこそ、今の一瞬一瞬も尊いのではないでしょうか。死に続いている今なら、今も死んでいるのと同じです。
今生の別れの寂しさの中にも、死もまた幸せだと味わえる世界が、仏教が教える世界だと思います。清らかな仏様に抱かれ、清らかなお浄土に続く今を、お念仏を申す中に、大切に歩ませていただきましょう。
先日、お寺の近くの道路で、捨て猫を保護しました。二日間ぐらいでしょうか、ずっと猫の鳴き声が、お寺まで聞こえていました。探してみると、国道二号線脇の茂みの中に、生後四ヶ月ぐらいのオスの子猫がうずくまっていました。保護し、お寺まで連れて帰ると、最初は怯えていましたが、とても人懐っこく甘えん坊です。トイレも、市販の猫砂の上できちんとすることができます。おそらく、最近まで人に飼われていたのでしょう。二日間も鳴き通しで、声が枯れていました。猫は、猫同士のコミュニケーションでは鳴いたりしません。猫が鳴くのは、人間に対してなのです。よほど不安で寂しかったのでしょう。見捨てるという行為の残酷さを、改めて教えられたことでした。
浄土真宗というみ教えにおいても、この「見捨てる」という行為は、大きな意味をもっています。親鸞聖人が、そのご生涯で必死に救いを求められたのも、「見捨てられた者」という実感を、強くお持ちだったからなのです。
仏と凡夫との違いを、『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』というお書物の中には、具体的に恐れおののく心の有無にあることが説かれています。そこには、五つの心が示されています。一つは、不活畏(ふかつい)という心です。これは、上手く生活していけるかどうかに対する恐れです。人間、何十歳になっても、生活に対する不安は拭えないのではないでしょうか。二つには、悪名畏(あくみょうい)という心です。これは、人に悪口を言われていないかという恐れです。自分の悪口が耳に入っても、平常心でいられる人はいないでしょう。心がざわつくはずです。三つには、怯衆畏(こうしゅい)という心です。これは、人目を恐れるということです。誰でも人からどう思われているか、人の評価を気にしながら生きています。四つには、命終畏(みょうじゅうい)という心です。これは、自らが死んでいくことに対する恐れです。死への恐怖は、誰もが抱くものです。誰もが、死に対して無知だからです。理解できないものは、恐ろしいのです。五つには、悪趣畏(あくしゅい)という心です。これは、悪い所に行きはしないか、状況が今よりも悪化するのではないかという恐れです。これも、誰もが抱えている恐れでしょう。凡夫というのは、このような恐れや不安を抱く者のことをいうのです。一つでも当てはまれば、立派な凡夫です。逆に、このような恐れや不安を、何一つ抱かない者を聖者、仏様というのです。仏様には、恐れや不安はないのです。
仏道修行が順調に進んでいくと、このような恐れや不安が消えていき、人格が安定し、仏様に近づいていくとされます。しかし、仏道修行をいくら積み重ねても、仏に近づけない、不安や恐れを抱き続ける人はどうなるのでしょうか。それは、見捨てられるということです。お釈迦様は、仏に成るために必要な道を示されました。その道を歩むのは私自身です。歩めない者は、お釈迦さまからも見捨てられる、どうしようもない者ということです。本来の仏教の枠組みでは、このように考えられていました。
親鸞聖人も、比叡山でご修行されていたとき、不安や恐れが消えない中で、見捨てられた子猫のように、心の中ではただ救いを求め、叫んでおられたに違いありません。しかし、不安や恐れの中に落ちていく者を、決して見捨てることができないのも、仏様だったのです。仏様というのは、道を示し、できるものだけを評価する先生ではなかったのです。できるものを評価するのは当然ですが、それ以上に、できない子どもを放っておけない愛情深い親のような存在だったのです。
『仏説阿弥陀経』の中に迦留陀夷(カルダイ)という名の聴衆がいたことが説かれています。このカルダイは、お釈迦様の仏教教団の中では、戒律も教えも守らない不良青年のようなお弟子だったと伝えられています。しかし、不良青年のカルダイも、お釈迦様が阿弥陀如来様について説かれるお説教の場には、座ることが許されていたということです。お釈迦様の仏教教団では、どんな人にも居場所が恵まれていたのです。
仏に見捨てられても仕方がないような凡夫にも、居場所は恵まれています。それを親鸞聖人は、阿弥陀如来様から願われている私だよと教えてくださいました。けっして見捨てられることのない私との出遇いが、浄土真宗だと思います。お念仏を申す中、どんな時も、どんな私であっても、如来様が、必ずご一緒であることを大切に喜ばせていただきましょう。
先日、テレビを見ていると、北海道の札幌市で、商業施設や住宅が建ち並ぶ市街地に、クマが出没したというニュースが報道されていました。四人の人達が襲われ、重軽傷を負ったそうです。テレビの映像には、大きなクマが、巨体を揺らしながら、必死にフェンスによじ登る姿が映っていました。そのニュースで使われていた表現に、気になるものがありました。
「クマは午前11時すぎに同じ東区内で猟友会によって駆除されました。」
いかがでしょうか。「駆除」という言葉に、何か引っかかるものを感じないでしょうか。「駆除」という言葉を、国語辞典で調べますと、「害を与えるものを追い払う」とあります。しかし、追い払うことと命を殺めることは、必ずしも同じ意味ではありません。「クマは駆除されました」という表現は、「邪魔者は追い払われました」という意味のみが強調され、「クマの命を殺めざるをえなかった」という人間の心の痛みは、隠されています。もっと言えば、ここには、「邪魔者は殺されても仕方がない」という、人間の邪見が露わになっている感じがします。
ご法事の時に、御門徒の方にもご一緒に拝読していただく『仏説阿弥陀経』には、「五濁悪世」というお言葉が説かれています。五濁悪世とは、劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁という人間世界を覆う五つの濁り(にごり)を説いたものです。仏様の眼から見れば、この世界は、決して清らかではなく濁りきっているというのです。
劫濁とは、時代そのものが濁っているということです。その元にあるのが、見濁です。その時代に生きる人々の見解が濁っているのです。自己中心的な見解によって自己も環境も、すべてを濁らせていきます。自分たちさえよかったらよいという考え方が、社会とその時代を濁らせていくのです。煩悩濁とは、人の行動が濁っているということです。自分に都合のよいものを飽きることなく求め、自分に都合の悪いものを怒りをもって排除しようとする、そのような我欲に染まった誤った行動が、自分も人も環境も破壊していくのです。このような濁った見解と行動によって、生き物全体が劣化していく状況を衆生濁といいます。そして、命濁とは、命そのものの尊さを感受する心が失われ、命の価値が粗末になっていくことをいうのです。
まさしく、私達が生きる人間社会の状況を、的確に説き表わしているものだといえるでしょう。2500年前のインドも現代の日本も、人間という迷える存在が作り出していく社会は、何も変わらないのです。お経というのは、じっくり拝読させていただくと、おとぎ話のような非現実的なことではなく、ドキッとさせられるような本当のことが書かれてあることがよく分かります。しかしそれは、お経に書かれてあるから、本当なのではありません。本当のことだから、お経に書かれてあるのです。お釈迦様のお言葉というのは、五濁悪世の中にあって、その濁りに決して染まることなく、清らかな真実に目覚めていかれた仏様のお言葉です。それは、真実に目覚めた方のお言葉であると同時に、五濁悪世の中で濁りに染まっていくものを、真実に目覚めさせるお言葉でもあるのです。
今でも仏教の教えに基づいた国作りをしている国家があります。ブータンという国です。ブータンに旅行に行った方が、「初めてハエに生まれ変わってもいいと思った」という感想を漏らされたことを、ある僧侶の方から聞かせていただいたことがあります。ハエに生まれ変わっても幸せと思えるほど、ハエの命も敬われている社会があるということなのでしょう。おそらくブータンでは、ハエを殺める行為に対しても「駆除」という言葉は、けっして使うことはないはずです。
濁った者同士の中にいる者は、自分が濁っているということに気づくことはありません。濁りに気づくのは、濁っていない清らかなものに出会うこと以外にはないのです。その意味では、お釈迦様のお言葉が記されたお経というのは、自分の濁った姿を映し出す鏡のようなものです。清らかな綺麗な者の前で、自分が汚れ濁っていれば、必ず恥ずかしさが生まれます。そして、恥ずかしさが生まれれば、自分の身を正していこうとするはずなのです。ここに、仏教徒としての厳格な生き方が恵まれていくのでしょう。
命に対して「駆除」や「殺処分」というような冷酷な言葉が公に使われ、何も感じなくなっている社会というのは、鬼が作りだす地獄と同じです。五濁悪世の中に届いてくださる清らかな言葉に耳を傾け、真実に気づかされていく毎日を、大切に歩ませていただきたいものです。