先日、ある御門徒のご法事の折、次のようなご質問をいただきました。
「以前、どこかで聞いたことがあるんですが、親鸞聖人は、『自分は、親の供養をしたことがない、それよりも万物に祈りなさい』というようなことを説かれたそうですが、本当なのですか?」
この方が、以前、どこかで聞かれたという親鸞聖人のお言葉は、おそらく『歎異抄』の次のお言葉だと思います。
「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。」
仏教における教えの言葉が、正確に伝わるというのは、大変難しいことです。お経の言葉や親鸞聖人の言葉は、大変難しいですが、難しくてよいのです。分りやすいというのは、それだけ人間の価値観に近く、危うい思想である可能性が高いと思います。結局のところ、人間に人間を救う力はありません。分りにくいけれども、何か惹かれるものを感じる、そんな言葉の中にこそ、人間のはからいを超えた仏様の悟りの内容が込められているのです。
この『歎異抄』の親鸞聖人のお言葉も、大変分かりにくいものです。それは、私達の常識に当てはまらないからです。亡き父母の供養のために念仏を申したことは、一度としてないと言い切られます。しかし、私達の常識は、念仏やお経は、亡き方の供養のために唱えるものというものです。
そもそも、供養という言葉自体、私達の常識では理解できない意味が込められています。私達の常識では、供養というのは、亡くなった方を助け救っていくという意味を持っています。しかし、供養とは、もともとインドの「プージャナー」という言葉を中国語に翻訳したものです。プージャナーを直接日本語に翻訳すると、「心から尊敬する」「敬う」という意味になります。つまり、供養とは、心からの尊敬を捧げることをいうのです。仏様や仏弟子といった心から尊敬する対象に対して、食事やお花やお香など、尊敬の想いを形に表して捧げていくことを、本来、仏教では供養というのです。亡くなった方を助け救うという意味は、本来、込められていないのです。本来、込められていない内容を、自分勝手な解釈で、世間的な常識にして、分ったつもりになっているのが、私達の危うさです。教えの言葉というのは、どこまでも頭を下げ聞かせていただくものです。自分の価値観に合うように、自分が理解しやすいように、勝手に解釈していいものではありません。迷信というのは、こういった人間の勝手な思い込みから生まれる、誤った宗教的理解であることがほとんどなのです。
念仏は、亡き父母の供養のために唱えるものではない、という親鸞聖人のお言葉は、人の常識ではなく、仏様のお言葉を素直にいただく中から生まれたものです。仏様の言葉を素直に聞かず、人の常識に囚われ、亡き方を助けるために念仏している人々に対して、親鸞聖人は、非常識な言葉をもって、それを破ろうとされます。「そのゆゑは、」に続くお言葉が、それです。本来、本当の愛情とは、自分に関係のあるものだけでなく、あらゆる命に及んでいくものでなければなりません。そして、その本物の愛情が持てるのは、あらゆる人々から敬われる仏様だけなのです。そもそも、今、目の前にいるものさえも救えないような人間が、どこでどうしているのか分らないような亡き方を救うことなど、できるわけがないのです。念仏を唱えて、亡き方を救ったような気になっているのも、人間の危うい思い込みにすぎません。
しかし、亡き父母のことを想わなくても良いとは言われません。亡き父母を救うことができるのは、今の私ではないと言われるのです。今は、大切な父母さえも幸せにできない愚かな身ですが、父母含め、あらゆる命の上に本当の安らぎをもたらし、あらゆる命を心から愛することのできる尊い仏様と成ることが、阿弥陀如来によって約束されているのです。私は、愚かなまま死んで終わっていくことが願われているような虚しい存在ではありません。万物を救っていく仏様に成ることが、一心に願われてある大切な存在なのです。
親鸞聖人のお言葉は、虚構ともいうべき偽物の安心の中で生きることの危うさを教えてくれています。お念仏は、愚かな私が使う道具ではありません。本物の安心をもたらす敬うべき仏様からの贈り物です。お念仏を申す中に、虚構が破られ、真実の世界に眼が開かれていくのです。共々に、素直に聞かせていただく毎日を、大切にいたしましょう。
新型コロナウイルスの感染拡大も、幾分か落ち着いてきました。しかし、感染拡大に対する張り詰めた緊張感は、まだ続いているように思います。先日も、ある御門徒宅のご法事にお参りさせて頂いた時、ご当主から、マスクを着用した上でのお勤めをお願いされました。職場からの指示だということでした。医療現場や介護・老人施設で働いておられる方々にとっては、未だ緊張が解けない日々が続いていることを、改めて実感させていただきました。
そのご法事の折、帰り際に、ご当主と次のようなやりとりがありました。
「新型コロナウイルスに感染して亡くなった方の葬儀は、どういう形になるんでしょうか?テレビなどでは、すぐに火葬するようなことを言っていましたが。」
「そうですね。おそらく、火葬後、お骨のお姿になってからの葬儀になるのではないでしょうか。」
「遺族の方は、死に目にも会えないどころか、遺体を目にすることすらできないということですよね。ちゃんとお別れができないのは、つらいですね。」
今生の別れの在り方について、改めて考えさせられたことでした。今生の別れ、いわゆる大切な人との死別の経験は、私達人間境涯に生きる者にとって、もっとも深い悲しみをもたらすものでしょう。二年前にもご紹介させていただいたアメリカの自然人類学者バーバラ・J・キング博士の実証実験の結果をまとめた『死を悼む動物たち』には、カラスやカメ、ゾウに至るまで、様々な動物が大切な仲間との死別を悲しんでいることが紹介されています。死別による深い悲しみは、人だけではなく、あらゆる命あるものに共通しています。『仏説無量寿経』の中で、阿弥陀如来の願いが、「十方衆生」と、人だけでなく、あらゆる命あるものを対象とされているのは、そのことを教えているのでしょう。
仏教では、命は、無数の縁によって恵まれていることを教えています。縁というのは、原因とも言い換えることが出来ます。結果には、必ずそれをもたらした原因があります。仏教では、いわゆる結果だけが突然現れる奇跡というものを認めません。私には、不思議でたまらない奇跡のような出来事にも、必ず原因があるのです。あらゆるものは、必然です。しかし、命が生まれるという結果の背景にある原因は、人が計らえるほど単純なものではありません。決して計らうことのできない無数の原因が、果てしなく幾重にも積み重なり、一つの命は、はじめて誕生するのです。それは、人の命だけではありません。動物も草花も虫の命も、一つ一つの命の誕生の背景には、何人も計らうことの出来ない無数の原因が果てしなく積み重なっているのです。それ故に、一つとして、同じ命は生まれないのです。果てしなく積み重なっていく無数の原因の一つ一つが、全く同じく重なることはあり得ないからです。一人ひとり、一つ一つの命の背景に関わっているものは、みんな違いながら、それぞれに非常に重いのです。それだけ、どんな命も、他とは比べることの出来ない掛け替えのない重みを背負って生まれてきているということです。死とは、その掛け替えのない命を、それぞれが、力の限り生き抜いた結果です。
その死を迎えた人を前にして、残された者が、どんな態度を取るのかは、人に課せられた大きな問題だと思います。最近は、都会を中心に、葬儀を勤めず、直接火葬する直葬が増えてきたといいます。この問題を、仏教寺院存続の危機として語られることも多いですが、本当の問題は、そんなところにあるのではありません。葬儀を省略する、今生のお別れをきちんとしない、という態度は、考えてみると非常に恐ろしいことだからです。単に死んだから燃やしてしまうという態度は、役に立たなくなったものをゴミ袋に入れて捨ててしまう態度と根本的には同じです。そこには、計らうことの出来ない無数の原因によって結ばれた掛け替えのなさに対する敬意も、その掛け替えのない命が、力の限り生き抜かれたことの尊さに頭が下がる感動も、人が本来持つべき感受性が、全く欠落しています。人としての感受性が欠落した存在を、仏教では、鬼というのです。鬼が増え続ける世界は、地獄に他なりません。地獄の存在を平気で否定する人々が、地獄の世界を現実に作り出していくのです。
葬儀を勤めず火葬にせざるを得ない、そんな状況に心を痛めていく、この感受性を人は失ってはいけないと思います。未曾有のコロナ禍の中で、改めて、様々な場面で人としての在り方が問われています。仏法を聞かせていただく中に、人としての在り方を見つめさせていただきましょう。
新型コロナウイルスの感染拡大の影響が続いています。病の苦しみは、仏教では、人間の根本苦である四苦の一つとして示されています。
四苦とは、生まれること、老いること、病に罹ること、死んでいくことの四つの苦しみを言います。シャカ族の王子であったお釈迦様が、出家をし修行者になっていかれたのは、この苦しみの原因を突き止め、克服するためでした。自分自身が、この四つの現実を、苦しみとして受け止めていく根本原因はどこにあるのか、それが、お釈迦様の出発点なのです。今から約2500年前の12月8日、35歳のお釈迦様は、菩提樹の下でお悟りを開かれました。それは、苦しみの根本原因を突き止め、苦しみを克服し、真の自由を獲得したことを意味していました。生老病死の現実に苦しむことのない安らかで自由な境地を知る人として、人々は、お釈迦様のことを仏陀と呼ぶようになります。仏陀(ブッダ)というのは、サンスクリット語で目覚めた者という意味です。この仏陀が、仏様という言葉の語源です。仏様とは、苦しみを克服した真実に目覚めた存在のことをいい、仏教とは、苦しみを克服する目覚めの道が説かれたものなのです。
親鸞聖人が、二十年間、比叡山で厳しい仏道修行の日々を過ごされたことも、その後、法然聖人に出遇われ、比叡山を下り、在俗の中でお念仏の道を歩まれたのも、それは、苦しみを克服する目覚めの道を歩まれたことに他なりません。親鸞聖人によって、在俗に生きる私達にも、生老病死の苦しみを克服する道が恵まれていることを、今一度、大切に味わっていきたいものです。
以前、ある御門徒の方から次のようなお話を聞かせて頂いたことがあります。
「私が仏法を聞かせていただくようになったのは、母の姿があったからです。私の母は、お念仏中心の人生を生きた人でした。母が亡くなる少し前、亡き父の年回忌の法事が自宅で勤まりました。法事が終わって、前住職が帰られるとき、母が前住職に語った言葉が今でも忘れられません。母は前住職にこう言いました。『ご院家さん、これがお会いできる最後かも分りません。もう長くないことは、自分が一番よく分っています。ご院家さん、お浄土で必ずあなたをお待ちしておりますが、ご院家さんは、できるだけゆっくりおいでくださいね。』本当に、その時が、母にとって前住職と言葉を交わした最後の日になりました。『できるだけゆっくりおいでください』と柔らかい眼差しで語っていた母の姿が、今でも忘れられません。」
このお話からは、出家をした修行者ではなく、在俗の中で生きる純粋な念仏者が、人間の根本苦を克服している有り難い姿を味わうことができるかと思います。
仏教では、生老病死は、苦しみという現実ではありますが、苦しみを生み出す原因とは見ていません。生老病死は、単に生老病死という現実でしかありません。それを苦しみとして描き出すのは、他ならない私自身の感受性なのです。「人生は苦である」とお釈迦様がお示しされたのは、人というのは、共通して生老病死を苦しみとして受け止める貧しい感受性を持っている存在であることを示されたのです。
人生には、浮き沈みがあるものだとよく言います。今は辛くても、必ずよくなる時は来ると。しかし、必ず最後には老病死が待っています。老いは、二度と若さに向かうことはありません。治ることのない病も待っています。そして、死が訪れれば、よくなる時は、もう来ることはありません。そんなことは当たり前、しょうがないと勝手にけりをつけて、自分の人生に向き合おうとしないことは、恵まれた掛け替えのない人生に対する冒涜ではないでしょうか。命がけで仏法を相続してこられた人々の想いは、そこにあるのだと思います。
死んでいくことは、お浄土に生まれていくという尊い意味があり、この世もまた「ゆっくりおいでください」と言い切れるような有り難い世界なのです。親鸞聖人は、「信心の智慧」というお言葉を、よく使われています。それは、仏様の真心を素直に受け入れていく信心というのは、仏様の物の受け止め方、人にはない仏様の感受性を頂いていくことに他ならないからです。私達念仏者は、お念仏申す中に、一般の人には感受することが出来ない、素晴らしい世界を感受できる智慧を頂いていくのです。
新型コロナウイルスという新しい疫病が、人々を不安に貶めている苦難の時代を迎えています。共々に、今一度、仏法を聞かせて頂くことの大切な意味に向き合っていきましょう。
先日、大変お念仏を喜ばれた御門徒のお一人が、御往生されました。その方のお念仏の声が、もう聞けなくなることを思うと、大変寂しい気持ちがします。お盆やお取り越し報恩講のご縁にお参りに上がらせて頂いた時も、お勤めの後は、世間話はほとんどなく、いつも仏法の味わいをしみじみと語ってくださいました。沈黙されることが、ほとんどありませんでした。お話が途切れると、「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」と、自然とお念仏が口から溢れておられました。まさしく、お念仏に抱かれ、仏様と共に掛け替えのない人生を生き抜かれた念仏者でした。
その方が、特に繰り返し味わい喜んでおられた蓮如上人のお言葉があります。それは、『御文章』の「信心獲得章」と呼ばれるものの中の次の一節です。
「されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて『煩悩を断ぜずして涅槃をう』といへるはこのこころなり。」
いつも、この方のお宅で『御文章』を拝読させていただく機会があるときは、この「信心獲得章」を、できるだけ拝読するようにしていました。最初から最後まで拝読するのに、約三分~四分程度かかります。普通、『御文章』を拝聴される時は、誰もが頭を垂れ、沈黙されます。その方も、頭を深々と垂れ、黙って拝聴されておられましたが、先の一節の部分になると、決まって「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」とお念仏の声が溢れておられました。特に、「これによりて『煩悩を断ぜずして涅槃をう』といへるはこのこころなり」の一文になると、お念仏の声が大きくなっておられました。その大きく響くお念仏の声の中、拝読する住職も、蓮如上人のお言葉に込められた深い意味を、改めて大切に聞かせていただいたものです。
「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」、この一言の中には、仏道と真摯に向き合う者にとって、金を掘り出すような尊い意味が込められているのです。「涅槃を得る」とは、「悟りを開く」ということです。「悟りを開く」というのは、お釈迦様のような仏様に成るということです。仏教とは、本来、お釈迦様のような仏様に成ることの正しさを教え、その仏様に成るための道を教えるものです。仏様とは、どんな命も無条件に慈しみ、あらゆる悲しみを引き受け、あらゆる命と共にありつづけるような存在です。そこには、愚痴も不満もありません。澄み切った心の状態がぶれることもありません。愛と憎しみも超えていきます。生と死の壁もありません。私達には、想像できない深い境地が悟りの世界です。仏様のみ教えと真摯に向き合うということは、その境地に至る道と向き合い、その境地とは、ほど遠い自分自身の愚かな姿としっかり向き合うということです。
仏様と私との決定的な違いは、煩悩です。私を煩わせ悩ますものです。煩いと悩みを持つ者は、仏様ではありません。凡夫です。そして、私を煩わせ悩ますものの正体は、私の心なのです。自分自身を愛し、自分自身の都合を邪魔する者を憎んでいく私の根性が、私自身を煩わせ悩ますのです。お釈迦様以来、約二千五百年の間、真摯な仏道修行者達は、この自分自身のどうしようもない根性と格闘してきたのです。
仏道というのは、本来、仏様の尊さを知らされると同時に、煩悩を抱える自分自身の愚かさを知らされ、そして、「煩悩を断じて涅槃を得る道」を力強く歩むことをいうのです。その仏教の大原則の中、親鸞聖人は、「煩悩を断ぜずして涅槃を得る道」を明らかにされました。どうしようもない煩悩を抱えた私も、阿弥陀如来から願われている掛け替えのない仏の子であることを教えてくださったのです。人生における煩いや悩みも、掛け替えのない私自身です。仏様が、無条件でどんな命も慈しみ、あらゆる悲しみを引き受けてくださる存在であるなら、煩悩を抱える仏様でない私は、このまんまで仏様から深く慈しまれ悲しまれる存在なのです。その深い慈しみと願いが、言葉になり働きとなって、私に満ち満ちてくださっているのが南無阿弥陀仏のお念仏です。南無阿弥陀仏のお念仏は、どうしようもない煩悩を抱える私に、阿弥陀如来の深い慈愛の中にあることを知らせ、私を決して見捨てない本当の親がましますことを聞かせてくださる阿弥陀如来の呼び声なのです。
お念仏の声の中に、人智を越えた深い心が響いているのです。新型コロナウイルスの影響で法座のない月日が続きます。自らが称えるお念仏の声を大切に聞かせていただきましょう。
【住職の日記】
先日、ある方から、興味深いお話を聞かせていただくことがありました。それは、動物の命についてのことです。現在、世界的に、動物愛護の意識は高まっています。しかし、人間以外の動物の命も大切だとする点では共通していたとしても、世界の人々によって、その捉え方は様々だといいます。その価値観の違いを形作るものは、やはり宗教の違いだそうです。
キリスト教文化圏の人々がもつ価値観は、人間以外の動物の命も大切だとしますが、そこには、どうしても人間と人間以外の動物との間に大きな隔たりがあるといいます。たとえば、動物の子どもを人間が育てる時、キリスト教文化圏の人々は、動物を叱りつけることを嫌う傾向があるといいます。それは、動物というのは人間とは異なり、叱りつける奥にある愛情を感じることが出来ず、ただ苦しみを感じるだけだという考えがあるからです。一方、仏教文化圏の人々がもつ価値観は、人間と人間以外の動物との間に、隔たりがあまり感じられないといいます。動物を育てるときにも、愛情を持ちながら、時には褒め、時には叱りつけ、自分の子どもを育てるように育てていくそうです。どちらも、動物の命に思いやりをもち、その命を大切にしていく点では、共通しています。
しかし、この微妙な命に対する価値観の違いが、大きな問題になることがあるのです。その一つが、鯨漁の問題です。日本の鯨漁は、世界の人々から、大きな批判を受け続けています。日本の人々からすると、牛や豚を食肉とする西洋の人々が、なぜ、鯨になると、あそこまで批判してくるのかが理解できません。ここにも宗教観の違いがあるのです。キリスト教文化圏の人々は、牛や豚は、人間とは大きな隔たりがあると考えています。牛や豚の命が、大切でないとはいいませんが、少なくとも、人間の命と比べたとき、人間の命の方が大切だという価値観はもっていると思います。しかし、鯨は、牛や豚よりも、人間に近い動物だと考えているのです。人間に近い感情を持ち、人間の仲間になれる高等な動物なのです。ですから、鯨漁は、人間に近い動物を虐殺する残酷な行為として許すことができないのです。
仏教文化圏の人々からすると、牛や豚は、殺してもよくて、鯨は、殺してはいけないという価値観が、理解できません。それは、命を見つめる価値観の根底に、縁起という仏教思想が流れているからです。お釈迦様の悟りの内容は、この縁起の道理だと言われます。この道理を体得することが、悟りなのです。縁起というのは、縁って起こるという意味です。この世界のあらゆるものは、独立して存在することはありえません。すべてのあらゆるものは、どこかで支え合い、補い合いながら存在しています。私という言葉も、私以外のものが存在しなければ、成立しません。その意味では、あなたと呼べる存在によって、私という言葉が存在しているのです。あなたなしに私は存在しえないということです。
これを突き詰めていくと、無数の命と無数の出来事が無数に折り重なって、私というものが存在しえているのです。あらゆるものは、どこかで繋がりを持っており、この世界で、私と関係のないものなど一つとしてない、という世界を体得しておられるのが、仏様と呼ばれる存在です。体得するというのは、頭で理解することではありません。実感として、その世界を感受していくことです。縁起を体得した仏様には、大慈悲と呼ばれる、無限の繋がりをもった無限の命を、自分のこととして慈しみ深く悲しんでいく清らかな心が起こっていきます。あらゆる命が、自分のことのように愛おしいのです。そこには、自分と自分以外の区別すら存在しません。あらゆるものが、自分であり、あらゆるものが尊い輝きを放っています。
私達には、その世界を聞いて、なんとなく理解することが出来ても、その世界を体得し、大慈悲という心を起こしていくことはできません。どこまでも、自分と自分に関係する者が愛おしく、それ以外には、冷酷なのです。しかし、そんな私達が、命を区別することに違和感を感じるなら、それは、私達の上に、仏様の大慈悲のお心が響いているということです。仏様の眼差しが、私達を育ててくださっているということでしょう。
自分では当たり前に思っていることも、他と比較すると、当たり前でないことに気づくことがあります。知らず知らずのうちに、仏様の働きの中で育てられているということも有り難いことです。今後、ますますグローバルな時代が訪れてくることでしょう。知らず知らずに私達に根付いている仏教的価値観も大切にしたいものです。
【住職の日記】
先月から、中国を中心に新型コロナウイルスが、世界で猛威を振るっています。日本でも、日々、感染者が増えている状況です。目に見えない小さなウイルスが、世界中の人々に大きな不安をもたらしています。病というのは、お釈迦様がお示しくださる人間の根本苦の一つです。生あるものにとっては、誰もが例外なく病の苦しみを背負っていかなければなりません。逃れられない根本苦だからこそ、この度の新型コロナウイルスも世界中で一大事となっているのでしょう。
このようなウイルス性の病が流行すると、いつも妙好人浅原才市さんの詩が思い出されます。浄土真宗の御門徒の方々の中には、妙好人(みょうこうにん)という言葉で讃えられる方々がいます。阿弥陀如来のお浄土に咲く妙なる花を妙好華と言いますが、妙好人と讃えられる方は、まさしく、お浄土の清らかな輝きを、この娑婆世界において放つような、妙なる方々のことです。その妙好人と讃えられた方のお一人が、浅原才市(あさはらさいち)さんです。島根県の温泉津町という小さな田舎町に暮らした方で、幕末の嘉永三年に生まれ、昭和七年に八十三歳の生涯を閉じています。船大工や下駄作りを生業とし、仏法聴聞を人生の中心にして生き抜いた方でした。文字の読み書きは元々できなかったそうですが、大工仕事をしているうちに、見よう見まねで、平仮名に片仮名を混ぜて、どうにか文字が書けるようになっていったそうです。下駄を削りながら、道を歩きながら、お寺にお参りしている時など、その時その時に心にフッと浮かんだ仏法の味わいを、書き留めるようになっていきます。自由に書き留められたその深い味わいは、優れた宗教詩として、死後三十年以上経って、東京大学の鈴木大拙博士によって世界的に紹介されるようになります。現在、島根県温泉津町には、その威徳を慕い、浅原才市像が建てられています。
浅原才市さんが、熱心に足を運びお聴聞をした安楽寺には、才市さんの宗教詩を刻んだ句碑が建てられています。そこに刻まれている次の宗教詩が、いつもウイルス性の病が流行すると、思い出されるものです。この詩は、あの北原白秋が目にして、その天才的な詩的才能に驚愕したと伝えられています。
「かぜをひくと せきがでる
才市がご法義のかぜをひいた
念仏のせきが でる でる」
短い詩ですが、深いお念仏の味わいが、豊かに表現されています。ウイルスという人の眼には見えないものの働きが、風邪という病の症状を引き起こしていきます。風邪にかかると出る咳は、私の意思の力で出しているものではありません。眼に見えないものの働きによって、出てしまうものなのです。出したくなくても喉の奥から込み上げるように出てしまう咳は、私が、風邪をひいた証拠です。同じように、本来、お念仏を称えるはずのない私の口に、南無阿弥陀仏とお念仏が出てくださるのは、私のことを深く願ってくださる阿弥陀如来のお慈悲の風邪をひいた証拠なのです。風邪をひき、咳き込む苦しさの中に、ふとお念仏の尊さを味わい、書き留められた詩なのでしょう。病という苦しみが、仏法を味わう尊いご縁になっておられることが分ります。
お釈迦様は、生老病死という逃れることのできない人間の根本苦を越えていく道を仏道という形で教えてくださいました。しかし、それは決して根本苦から逃げる道ではなかったのです。苦しみを抱えるまま、本当の仏道を歩む人には、その苦しみの中に尊い意味を味わう世界があるのです。浅原才市さんは、次のような詩も詩っておられます。
「世界のものが ことごとく
ちしきに変じて
これをわしによろこばす」
「ちしき」というのは、善知識、私を正しい方向へ導いてくださる仏教の先生のことです。人生には、私の都合を喜ばせる順縁となる人々、逆に、私の都合を邪魔し苦しめる逆縁となる人々がいます。また、人だけではありません。様々な出来事や、ウイルスのような眼には見えないものまで、順縁と逆縁があります。しかし、善きにつけ悪しきにつけ、苦しみ楽しみにつけて、あらゆるものが、私にお念仏を喜ばせてくださった人生の尊い教師であったと合掌してゆける心の視野が開かれているのです。これこそが、根本苦を超えていく真実の仏道を歩んでいる仏教徒の姿といえるでしょう。
どんな思いがけないことが起こっても、それもお念仏の尊いご縁として、大切にさせていただきましょう。
(令和2年3月1日)
【住職の日記】
今年も、親鸞聖人の御正忌報恩講が、三日間にわたり、無事勤まりました。報恩講は、親鸞聖人の祥月命日に、聖人の御遺徳を偲び、そのご恩に報いるためにお勤めする、浄土真宗門徒にとって最も大切な御法要です。何が親鸞聖人のご恩に報いることになるのかといえば、それは、大変なご苦労の中で明らかにしてくださったお念仏のみ教えに、一人一人が出遇わせていただくことです。
今年の御正忌報恩講も、三日間で延べ300人~350人の方々がお参りくださいました。下は小学生から、上は九十歳代の方まで様々です。人の人生は、掛け替えのないものです。小学生には小学生の喜びと悲しみがあります。九十歳には九十歳の喜びと悲しみがあります。それぞれが、人には分らない、自分だけの生と死を抱えています。その千差万別の生と死を、同じように優しく包み込んでいく働きが、お念仏だと思います。たくさんの方々のご苦労の中で御正忌報恩講のご縁が整い、色んなものを抱える一人一人が、一同に本堂に集まり、同じお念仏に包まれていく姿は、浄土真宗門徒にとって、やはり最も大切にすべきものだと思います。
三日間の中では、朝から夜まで法座の席に着き、和やかにお聴聞くださった中学生の子どもや、お体の悪い中、杖をつきながらお参りくださるご年配の方など、正法寺門徒の有り難いお姿に、たくさん出遇わせていただきました。人が、仏様の言葉を聞く姿というのは、立場や年齢に関係なく本当に尊いものだと思います。人は、誰もが自分が中心です。自分の思いや価値観を主張することは、誰もがすることです。しかし、自分の思いや価値観と異なるものに耳を傾けるというのは、大変、難しいことだと思います。その難しいことをさせていただけている姿の上に、不思議な如来様の働きと、親鸞聖人のご苦労を偲ばせていただくのです。
親鸞聖人が歩まれたお念仏の道は、自分を空しくして、如来様を仰ぎ、そのお心を聞き続けられた道です。親鸞聖人のお念仏は、口に称えるという行為よりも、口に称えられたお念仏を、大切に耳に聞かせていただくところに重要な意味があります。お念仏は、その声を聞かせていただくことが大切なのです。南無阿弥陀仏を通して、何を聞かせていただくのか、それは、阿弥陀如来の温かい慈しみと深い悲しみです。お念仏を聞かせていただくことを通して、私と私以外の様々な命が、仏様から深く願われている掛け替えのない尊さをもっていることに目覚めていくのです。
親鸞聖人が最も大切にされた、この「聞く」ということについて、この度の報恩講で、改めてその意味を教えていただくことがありました。三日目の御満座でのことです。御講師の先生は、御法話の最後に必ず蓮如上人の『御文章』を拝読されます。『御文章』というのは、浄土真宗のみ教えを広く伝えられた蓮如上人の御法話が文字で表されたものです。浄土真宗本願寺派の御法話の作法として、最後に御講師も一緒に、蓮如上人の御法話をお聴聞して御法座を閉じるのです。御講師の先生が、御満座の最後に『御文章』を拝読されていた時でした。お耳の遠いご年配の参詣者の方が、頭を下げられたまま、御講師の先生と一緒に、『御文章』のお言葉を、声に出されたのです。これまで何度も何度も、その蓮如上人のお言葉を耳に聞き、味わってこられたのでしょう。思わず声に出されたご様子でした。ご本人自身も、声に出されたことを気付いておられないかも知れません。多くの参詣者の方々が、静かに頭を下げ御拝聴されている中、御講師の先生の声と一緒に聞こえてくる、その方の『御文章』の声は、大変ありがたい響きをもったものでした。
思わず声に出るというのは、その言葉が、その人の命を潤すものだからでしょう。言葉が、心を満たしていくのです。どれだけ耳の遠い人であっても、自分の声は聞こえます。全く聞こえない人であっても、声が言葉にならない人であっても、自分の心が語る声は聞こえるのです。阿弥陀如来様の温かい慈しみと深い悲しみが、南無阿弥陀仏の言葉になったということの意味は、ここにあると思います。阿弥陀如来様は、私の声になってくださったのです。何度も何度も私の声になり、最後には、私が思わず声に出し聞かずにはおれない、深い愛と慈しみを私の人生に満たしてくださるのでしょう。
親鸞聖人は、その厳しい九十年の御生涯を通じて、たとえ厳しい生涯であったとしても、私がそのままで尊いと輝いていくことのできる道を示してくださいました。本年も、お念仏を仰ぎ聞かせていただく毎日を大切にさせていただきましょう。
(令和2年2月1日)
【住職の日記】
令和になって初めてのお正月をお迎えしました。お互いに明日も知れない命を頂いています。今年も、大切にお念仏薫る日暮らしをさせていただきましょう。
さて、先日、『基礎からはじめる真宗講座』において、「十方衆生」というお経の言葉について、少しお話をさせていただく機会がありました。お話を準備させていただく中で、改めて、仏様の言葉の中に込められている命の深みについて、考えさせられたことでした。
「十方」というのは、東西南北の四方に東北・東南・西南・西北を加えた八方、そして、それに上方と下方を加えたものです。あらゆる空間の総称です。「衆生」というのは、あらゆる命あるもののことです。「十方衆生」というのは、あらゆる空間に存在するあらゆる命あるもののことをいいます。
この「十方」というあらゆる空間について、古代インドの仏教徒達は、現代の日本人には持ち得ない広大な世界観をもっていました。まだ天文学や宇宙物理学が発達していなかった古代のインド人達は、私達が認識しうる限りの世界を須弥山世界(しゅみせんせかい)と呼んでいました。詳しい説明は省略しますが、私達が世界として認識している太陽や星や月、雲や風、海や川、様々な動物や植物などは、須弥山という聖なる山を中心にして展開している世界と考えていたのです。そして、古代のインド人達は、須弥山世界は、一つではないと考えていました。つまり、自分達が認識しうる世界が、全てではないと考えていたのです。その世界観は、広大無辺なものです。須弥山世界が千個集まって構成される世界を小千世界といいます。その小千世界が千個集まって構成される世界を中千世界といいます。その中千世界が千個集まって構成される世界を大千世界といい、その世界は須弥山世界が千の三乗個集まったものですから、三千大千世界と呼んだのです。この「三千大千世界」という言葉は、年回忌のご法事で、住職とご一緒に拝読する『仏説阿弥陀経』の中に何度も出てくる言葉ですので、見覚えのある方も多いかと思います。そして、この三千大千世界が、お釈迦様のご教化の及ぶ範囲と考えられていました。しかし、この三千大千世界は、世界全体のほんの一部にしか過ぎません。十方というあらゆる空間には、この三千大千世界が無数に存在しているというのです。無数にある三千大千世界には、それぞれ、お釈迦様のような仏様が無数に存在し、それこそ無数に存在する生きとし生けるものを導いている、というのが、古代インドの仏教徒たちが持っていた世界観でした。ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたのは、西暦1600年代初頭です。そのはるか2000年も前に、古代インドの仏教徒達は、自分達の認識を遥かに超えた広大無辺な世界の中に、自分達がいることを感受していたのです。
阿弥陀如来が紡ぎだされた「十方衆生」という言葉には、私達の認識を遥かに超えた無数の命を深く慈しみ、悲しんでいく、広大無辺な心が込められています。広大無辺な世界を知り尽くすことができないように、その広大無辺な世界に存在するあらゆる命を願ってやまない広大無辺な心も私達には知り尽くすことはできません。しかし、知り尽くすことのできない世界や心に触れ得ることが幸せなことなのです。それは、頭が下がるものに出遇う幸せです。
想定外という言葉が、震災以降、日本社会で多く使われるようになりました。しかし、震災以前も、私達は、想定外の中に生きていたのです。それぞれ、自分の人生も想定外のことだらけです。想定内の中で生き死んでいく人はいません。みんな想定外の中を生き抜いているのではないでしょうか。仏様は、みんなが恐れている想定外の中に、尊いもの、人として触れていかなければならない大切なものがあることを教えてくださってあるのでしょう。想定外なものによって、私達は、願われ生かされているのです。
驚きのない毎日ほど、無感動で虚しいものはありません。お釈迦様に直接お会いした古代インドの仏教徒達は、その計り知れないお心とお姿に、これまで誰も経験したことのない強い衝撃と驚きを感じたに違いありません。その衝撃は、仏教という形で世界中に広がっていき、三千大千世界にまで及ぶと考えられたのです。人は、自分が正しいと思い込んでいく迷える凡夫です。ちっぽけで何も知らないにも関わらず、何もかも分かっている優れた存在と思い込んでいくのです。思い込みの中に沈む私達に、驚きと目覚めをもたらしていくのが、仏様の真理に基づいた言葉なのでしょう。
今年も、仏様の尊い言葉を大切に求めていく毎日を送らせていただきましょう。
(令和2年1月1日)
【住職の日記】
先日、ある御門徒の方から、念仏者であったお祖父様のお姿について、次のようなお話を聞かせて頂きました。
「私の祖父は、本当に仏様中心の生活を送っていた人でした。家に帰ってきたときには、玄関でまずお仏壇の方に向かい手を合わせていました。家の廊下を歩いている時でも、お仏壇の脇を通るときには、必ずお仏壇の方に向かい手を合わせていました。外で仕事をするときも、度々、手を止めては手を合わせていました。私が、今、手を合わす身にさせていただいているのも、幼少期に心に焼き付いた祖父の姿があるからだと思います。」
本来、仏教徒というのは、仏様を最も価値あるものと認め、仏様を仰ぎながら日暮らしを送る人々のことをいいます。何に最高の価値を認めていくかによって、宗教の姿は変わっていきます。仏教徒といいながら、仏教徒の姿とはほど遠い姿の人々が多いのも現実です。しかし、これは、仏教徒に限ったことではないようです。先日、三八年ぶりにローマカトリック教会のフランシスコ教皇が来日されました。イエス・キリストの教えに裏打ちされた、その穏やかな言葉と振る舞いに、感銘を受けた方々も多いのではないでしょうか。しかし、世界人口の二割の人々が信者だとされるカトリック教会においても、キリスト教徒の本来の姿が崩れつつあることが、大きな問題になっているといいます。
本来の宗教性が、世界から消失していく現実は、世界が大きな病に罹っているようなものかもしれません。そもそも、本当の宗教性とは何かが、非常に分りにくくなっています。先日、あるテレビ番組で、宗教学者の先生が、宗教が世界の中で力を失っている理由を、スマートホンなどを媒体としたインターネットの普及にあると解説していました。つまり、現代は、人が孤独や不安を抱えても、ソーシャルネットワークで様々な人々と繋がることで孤独が解消され、インターネットで様々な情報を簡単に手に入れることで、不安を解消できる社会だというのです。その先生は、スマートホンが、宗教の代わりを果たすようになっていると説明しておられました。しかし、スマートホンで代わりが果たせるようなものは、本当の宗教ではないと思います。
正法寺にも何度か御講師として来られ、昨年一月に八十八歳で御往生された大阪大学名誉教授の大峯顕先生は、「人生いかに生き、いかに死ぬべきか」という問題に答えないのは本当の宗教とはいえないとおっしゃっています。「生きるも死ぬも宗教の教えによって一貫しております」と言える人が、本当の宗教をもっている人だといいます。多くの人は、病気のときや商売で困っているときは、神様や仏様にお願いはするけれども、それが元に戻れば、もう神様も仏様もいらない、という宗教の態度をもっているのではないでしょうか。それは、結局のところ、人間の願望や力を信じているだけです。自分の願望や力が満たされることが、人生の最高の幸せだと認めているのです。しかし、人生において、その最高の幸せは、必ず老・病・死によって無残に奪われていかなければなりません。無残に奪われていく中には、真の平和はありません。スマートホンを駆使することによって、老いることに平和でいられるでしょうか。インターネットの情報を駆使することによって、死ぬことに平和でいられるでしょうか。死んでいくときは、ソーシャルネットワークも、その孤独を癒やすことはできないでしょう。何が人間の本当の幸せであるのかは、人間には分らないことです。何も分らないまま生まれてきたのです。何も分らないまま死んでいくのでしょう。
人の欲望は、決して人を幸せにはしません。人の願いを叶えようと近づいてくるものは、仏様ではなく悪魔です。仏典の中でも、悪魔は優しい顔をしています。多くは、その悪魔にそそのかされ、本当の幸せを見失っていくのです。
しかし、この世界は、悪魔だけがいるのではありません。人生において大切にすべきことが何であるのかを、様々な姿で、私に教えてくださる仏様の化身のような働きがあります。仏様に手を合わせ、思いのままにならない厳しい人生を、平和に生き抜いた多くの尊い念仏者の方々も、そのお一人でしょう。
お釈迦様は、悟りを開かれたとき、目が覚めたと表現されました。人の願望や力を信じている人は、夢の中にいるようなものなのでしょう。人は、本物に触れるとき、永い夢から目覚めるのです。本物を遺してくださった多くの先人の方々に感謝しながら、大切に手を合わせる毎日を過ごさせていただきましょう。
(令和元年12月1日)
【住職の日記】
先日、浄土真宗本願寺派の布教使として、全国の様々なお寺に出講している友人から色んなお話を聞かせていただく機会がありました。同じ浄土真宗本願寺派のお寺でも、その姿は様々だといいます。その中で、御門徒わずか八軒で支える、ある過疎地域のお寺についてのお話が印象的でした。そのお寺では、御門徒八軒が協力し合い、報恩講を二日間にわたってお勤めされるそうです。参詣者は、必ず十六人だといいます。八軒の御門徒が、それぞれ必ずご夫婦でお参りされるからです。増えることも減ることもなく、二日間、十六人の参詣者のなかで、親鸞聖人の御遺徳を偲ぶ報恩講が、毎年、勤められているということでした。
最近、全国のお寺が消滅していくという話題をよく耳にします。急激な人口減少に伴い、過疎地のお寺が消滅していくのは、致し方のないことかもしれません。しかし、お寺にとって最も恐れなければならないのは、人が来なくなることではありません。たとえ、八軒の御門徒であっても、そこで本物のみ教えに出遇い、報謝の念仏が響くのであれば、立派なお寺としての存在意義があるのです。お寺は、世俗の価値観の中で営まれるビジネスではありません。この最も大切な点が、現在、社会的に非常に分りにくくなっていると思います。
本願寺中興の祖と讃えられる蓮如上人が書かれた『御文章』の中に「雪中章」と呼ばれているものがあります。この「雪中章」は、蓮如上人が没落していた本願寺の第八代目の御門主に就任し、約一〇年が経過した頃に書かれたものです。この時、没落していた本願寺教団は、蓮如上人の御教化によって、まさしく生まれ変わろうとしていた時期でした。北陸の吉崎という地に坊舎を構えた蓮如上人のもとに、数え切れない人々が、各地から群れをなして参詣に来るようになります。「雪中章」は、まさしく本願寺教団が、そのような上り調子のただ中にある時に書かれたものです。そこには、次のようにあります。
「加州・能登・越中、両三箇国のあひだより道俗・男女、群集をなして、この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとほり、いかがと心もとなく候ふ。そのゆゑは、まづ当流のおもむきは、このたび極楽に往生すべきことわりは、他力の信心をえたるがゆゑなり。しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。一大事といふはこれなり。幸ひに五里・十里の遠路をしのぎ、この雪のうちに参詣のこころざしは、いかやうにこころえられたる心中ぞや。千万心もとなき次第なり。」
少し言葉が難しいかもしれませんが、何度も読み返していると、五〇〇年前の蓮如上人の熱い情熱が響いてきます。五里・十里という五〇キロ前後の道のりを深い雪の中、かき分けながら命がけで参詣してきた数え切れない人々に対して、ひと言も「よくお参りされました」というような褒める言葉も労う言葉もありません。「あなた方には、信心がない」とお諭しになり、「どうやってお浄土に生まれるおつもりか」と深い問題を誰もが抱えていることを一大事として投げかけておられます。
もし、蓮如上人が、個人的な我欲を満たすために、また、本願寺教団の勢力を拡大するために活動していたのであれば、自分のもとに群れをなして集まってくる人々に対して、労い、喜び、感謝するのではないでしょうか。しかし、人が多く集まり経済的に安定していくことは、本願寺教団の再生を目指していた蓮如上人にとって、何の喜びにもならなかったのです。それは、本願寺教団の再生は、真の仏法の再生なくしてはあり得なかったからでしょう。真の仏法の再生は、仏様の深い心とその言葉によって、自己中心の我欲を満たそうとする世俗の価値観が打ち破られ、如来のお慈悲によって生かされ、お慈悲によって人間境涯を安らかに終えてゆける、そんな本物の仏教徒の誕生以外にはありえません。
お金や地位や名誉、健康、家族、この世で私の都合に味方してくれるものは、必ず私を捨てていきます。この世のあらゆるものは無常です。私自身も、また無常なのです。本当に信じられるものは、どんなことがあっても私を捨てていかないものでしょう。それが何であるのかが説かれる場所がお寺であり、それを求め出遇い、本当の人生に目覚めていく人々が集う場所がお寺なのです。
十六人で大切にお勤めされる報恩講の姿は、改めて、お寺があることの大切な意味を教えていただいたお話でした。
(令和元年11月1日)