【住職の日記】
今年も、多くの方々の御報謝の中で、親鸞聖人の御正忌報恩講が、無事勤まりました。御報謝くださった皆様、まことにありがとうございました。
今年は、コロナ禍が明け、四年ぶりにお斎の御報謝が再会し、各座の人数制限も撤廃されました。しかしながら、正法寺門徒全体に高齢化と過疎化が進んでおり、コロナ禍前の参詣者数には戻らないのが現状です。これは、全国の浄土真宗寺院が抱えている共通した問題でもあります。
そんな中で、御正忌報恩講の二日目の夜、大逮夜のご縁に、日曜学校の卒業生である高校生が数名、お参りに来てくれました。遊びに来てくれたのではなく、仏法のご縁に遇いに来てくれたのです。法座前に、みんなでお斎をいただき、その後は、本堂に座り、みんなでお勤めのご縁に遇い、御法話も最後までお聴聞してくれました。御講師の山本泉茂先生が、高校生にできるだけ合わせてくださり、冗談を交えながら、とても易しくお話してくださったこともあり、高校生の子ども達は、最後まで、とても和やかな表情で御法話を聞いてくれていました。その高校生のお孫さんと一緒にお参りされた方が、ご自分、お嫁さん、お孫さんと三世代一緒にそろってお聴聞できたことを、目に涙を浮かべて喜んでおられたのが印象的でした。
この度、お参りしてくれた高校生の一人は、年末の除夜会にも、学校の友達を連れてお参りしてくれていました。その時、初めてお寺にお参りした友達数人に、「最初に、本堂の仏様にお参りをしないと、鐘は撞けんのんよ」と、本堂にお参りすることを教えてくれていました。過疎化と高齢化が進む中で、十代の若者が、仏法に遇うことを喜んでくれている姿は、とてもうれしく、ありがたいものです。
本願寺中興の祖と讃えられる蓮如上人のお言葉に「わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり、ただわかきときたしなめと候ふ。」というものがあります。仏法は、できるだけ若い時から聞くようにしなさい。歳を重ねれば、歩くことも難しくなり、また、眠たくもなるというのです。心身が充実している若い時から、仏法を聞くように心がけなさいとのお諭しです。また、蓮如上人は、次のようなお言葉も遺されています。「仏法には明日と申すことあるまじく候ふ。仏法のことはいそげいそげと仰せられ候ふなり。」仏法のことは、明日聞けばよいというものではない。仏法のことは急ぎなさいとのお諭しです。
仏法を聞く、仏様のみ教えを聞くというのは、何を聞くのでしょうか?なぜ、後回しにしてはいけないのでしょうか?それは、この私自身の命の問題の解決を聞かせていただくからです。私達は、自分自身の命について、安心できるものを持っていません。もし、明日死ぬことになった場合、生まれてきてよかったと、自分自身の命に合掌できるもの、また、命の意味をしっかりと確認し、死もまたありがたいと安心できる世界を持っているでしょうか?多くの人は、何のために生まれ、何のために生き、何のために死ぬ命なのか、真剣に考えたこともないのではないでしょうか?自分の都合のために生き、地位や名誉、財産欲を満たすだけの人生を勝ち組とし、死に対しては、しょうがないと無関心であり続けようとする人生を生きていないでしょうか?
仏様のみ教えを聞くというのは、自分の現在地が知らされ、生きる方向性が与えられていくということなのです。迷いの凡夫であることが知らされ、お浄土へ向かった人生が恵まれていくということです。仏法を聞かないということは、自分が何者かも知らず、人生に方向性も持たず、ただ煩悩に振り回され、さまよい続けるだけの虚しい時間が過ぎていくということです。蓮如上人が言われるように、これは、急がなければなりません。明日、いや、今日にも、死が訪れるかも知れないからです。自分の現在地も知らず、お浄土に向かって進み出していない命は、当然、お浄土に生まれることなどできません。同じように、さまよい続けるしかないでしょう。
仏法に出遇い、自分の人生の方向性が定まった人は、大切な方にも、仏法に出遇って欲しいと願います。なぜなら、大切な方も一緒に同じ方向を向いて、同じ道を歩んで欲しいからです。それは、純粋に、一緒に幸せになってほしいという願いでしょう。浄土真宗のお寺という場は、仏法に出遇った多くの方々の清らかな願いの結晶です。この私が、仏法に出遇うために、用意されている場がお寺なのです。もう遅い、ということはありません。一日でも早く、お浄土への道を歩み始めましょう。