【住職の日記】
先日、幼い時にお父さんを亡くしている小学生が、「僕のお父さんは、仏様のお仕事をしているの。」と話してくれたことを聞きました。その男の子は、お寺の子どもさんですので、ご家族の方々が、そのように男の子にお話をしてきたのでしょう。誰もが、早かれ遅かれ、必ず命終えていかなければなりません。私達は、命終えていくことの意味を、子どもに語る言葉を持っているでしょうか?改めて、仏法を聞くことの大切な意味を教えられたような気がいたしました。
死者のことを語る言葉は、「天国に行った」「お星様になった」など、人間世界に溢れています。いずれも、先立った方の幸せを願い、また、その存在をいたわる思いから紡がれるものでしょう。誰もが、大切な方の死に直面したとき、その方の幸せを願わずにはおれません。
しかし、本当の幸せとは何でしょうか?これは、なかなか難しい問題です。古今東西、様々な宗教家や哲学者が、この問題と向き合い、様々な答えを出しています。実は、仏教も、お釈迦様の青年時代の深い苦悩から始まっており、仏教とは、お釈迦様が求められた幸せになるための道なのです。
一人のインドの国に生まれたゴータマ・シッダールタという名の苦悩を抱えた青年は、二十九歳で出家し、三十五歳の時、悟りを開き仏と成りました。悟りを開き仏と成った彼に出会った者は、みんな彼のような仏に成りたいと思ったのです。それが仏教の始まりでした。なぜ、お釈迦様に出会った人々は、みんな感動し、お釈迦様のような仏に成りたいと思ったのでしょうか?それは、お釈迦様が、誰よりも幸せに満ちておられたからでしょう。みんなお釈迦様のような、幸せな人に成りたいと思ったのです。
仏教徒にとっての本当の幸せとは、仏様に成ることに他なりません。仏様とは、智慧と慈悲を完成した者とされます。智慧というのは、簡単に言うと感受性のことです。仏様の智慧というのは、あらゆるものを平等に感受できるものと言われます。好き嫌いがありません。愛と憎しみもありません。私達には想像することもできない世界ですが、あらゆるものが一つに溶け合っていくような領域だと言われます。そして、その真の平等の世界から生まれてくる心が慈悲と言われるものです。慈は、心から相手の幸せを願える慈しみの心です。悲は、心から相手の悲しみを悲しめる呻きの心です。どんな人も、どんな動物も、どんな虫も、どんな草花も、命あるものをみんな平等に尊く感受し、どんな命も同じように愛おしく慈しみ、愛おしく悲しんでいける、そんな命の領域に生きる姿を仏様と言うのだそうです。
そして、本当の仏様とは、如来と表現されます。如来とは、真如より来たる者という意味です。それは、願いだけでなく、本当にあらゆる命を幸せにする力を持った者ということです。あらゆる命を愛おしく慈しみ、あらゆる命の悲しみを我がごととして呻いていく者が求める幸せは、あらゆる命の安らぎしかありません。あらゆる命の幸せが、そのまんま仏様の幸せなのです。
仏様に成るというのは、まず、あらゆる命を平等に愛せる者に成るということです。そして、愛せるだけでなく、愛するあらゆる命を幸せにできる力を備えていくということです。親鸞聖人は、八十五歳以降に書かれた『正像末和讃』というお書物の中で、ご自身のことを「小慈小悲もなき身にて・・・」とご述懐されています。「小慈小悲もなき身」というのは、この世界で最も愛おしい我が子でさえ、本当の意味で幸せにすることができない愚かな我が身という意味です。愛おしい者を幸せにできないことが、不幸なことであり、自分だけが幸せになる道はあり得ないのです。
今は、愛おしい我が子でさえ幸せにすることができない愚かな私ですが、この命終えるご縁をいただいたとき、今度は、お浄土に生まれさせていただき、愛おしい命を幸せにできる仏様に成らせていただくのです。これが、我が身を愚か者と述懐される親鸞聖人が、喜んでいかれた幸せの実現の形なのです。
「仏様のお仕事をしているの」という男の子の一言には、本当の幸せを実現されたお父さんの姿と、今もそのお父さんに愛され続けている自分との出遇いが込められています。お寺にお参りをし、お聴聞させていただく中に、本当の幸せを確認していく日々を大切にさせていただきましょう。