今年も、御正忌報恩講が無事勤まりました。多くの方々の御報謝の中で、本当に有難いご法要をお勤めさせていただきました。報恩講というのは、浄土真宗の宗祖である親鸞聖人のご法事のことです。いわゆる、他宗では「開山忌」と呼ばれているものです。しかし、他宗のお寺では、必ずしも「開山忌」が年間通じて、最も盛大に営まれる法要とはなっていません。浄土宗のお寺の御住職に、お寺の様々な行事についてお尋ねしたことがあります。そうすると、そのお寺では、法然聖人のご法事よりも、お盆の法要の方が盛大に営まれると教えてくださいました。
「報恩講」は、浄土真宗というみ教えの大きな特徴を表しています。
「報恩」というのは、恩に報いるという意味です。親鸞聖人のご恩に応えていくという意味です。「講」というのは、集まりという意味です。「報恩講」というのは、直訳すると「親鸞聖人のご恩に報いる集まり」ということになります。最近は、恩という言葉をあまり聞かなくなりました。それだけ、人々の中で、恩という心の働きが鈍くなってしまったということでしょう。
先日、ある御門徒の葬儀の後、次のようなお話を聞かせていただきました。
「母は、最期、お寺様にもあまりお参りできなくなりましたが、病院で、何かできることはないかと思い、母と一緒にいつも『恩徳讃』を歌わせていただいていました。『恩徳讃』を歌ってあげると、本当にうれしそうな顔をして、一緒に歌ってくれました。これまで、あまり仏法にご縁のなかった妹も、母と一緒に歌ってくれていました。妹にとっても、母と一緒に歌う『恩徳讃』は、ありがたいご縁になってくれたものと思います。」
『恩徳讃』というのは、親鸞聖人が八十五歳~八十八歳頃に創られた和文で書かれた詩の一つです。それは、次のものです。
「如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし」
親鸞聖人は、このような七五調で書かれた和讃と呼ばれる詩を五百首余り創られています。その中でも、この「恩徳讃」と呼ばれるものは、現代において洋楽のメロディーがつけられ、浄土真宗の行事の様々な場面で口ずさまれている、御門徒の方々にとっても、大変親しみのあるものです。正法寺においても、ご法座の度に歌っています。
この「恩徳讃」は、親鸞聖人が、その最晩年に、ご自身の身に溢れる喜びを吐露されたものなのです。
親鸞聖人は、阿弥陀如来と祖師方の為なら、身が粉々になっても、骨が砕かれても構わないと言えるほどの恩を、本気で感じておられました。私達は、身の回りのことでも、恩というものをほとんど感じることが亡くなっているように思います。例えば、毎日三度頂く食事もそうです。私達は、自分の体だけで命をつなぐことはできません。水一滴でさえも、自分で作り出すことはできないのです。生きるというのは、多くの恵みの中で生かされているということでしょう。それらの恵みに対して、深い恩を感じることができているでしょうか。それらの恩に報いるような生き方ができているでしょうか。
親鸞聖人は、自分一人の為に、どれほどの心が砕かれてきたのかを、経典の中の言葉から受け止めていかれました。私達は、如来から「あなたの為なら身が粉々になっても、骨が砕かれても構わない」と慈しまれ、愛されている存在なのです。その仏様の純粋な想い、また、その想いを命がけで伝えようとしてくださった先人の方々の想いに一生懸命に応えようとされた生き様が、親鸞聖人の尊い生涯だったといえるでしょう。
私の命の問題は、如来様が心を砕いてくださったのです。私がさせていただくのは、そのご恩に報いていくことです。浄土真宗は、私の幸せを実現するための生き方を教えているのではありません。こうでなければならない、こうしないといけないと教えているものではありません。ただ、私を想う如来の慈愛の真実なる世界を教えてくださっているのです。
如来様や親鸞聖人のご恩を受け止め、深い喜びの中に感謝する集いの場が、浄土真宗のお寺なのです。今年も、多くのお参りをお待ちしております。