「生死出づべき道」

先日、ある御門徒の方から、お子さんのことについて、次のようなご相談がありました。

 「二週間ほど前に、曾祖母が亡くなったのですが、そのことがきっかけで、娘の情緒が不安定になってしまって、どうしたらよいか困っています。『人は、死んだらどうなるの?』とか『死ぬのが怖い』とか尋ねてくるのですが、私には、何と声をかけてあげればよいか分からないのです。御院家さん、一度、娘の話を聞いてもらえないでしょうか。」

 後日、お母さんも一緒に交っていただいて、娘さんのお話を聞かせていただきました。普段、とても明るい小学四年生の女の子ですが、住職が、改めて曾お婆ちゃんのことについて声をかけると、うつむき、涙を流してしまいました。これほどまでに彼女を追い詰めたものは、死の恐怖でした。曾お婆ちゃんが亡くなった悲しみもさることながら、それ以上に、人の最後に初めて立ち会ったことが、彼女に予想以上の衝撃を与えたようでした。焼かれて、骨になる姿を目の当たりにした時に、自分もいつかはこんな風になってしまうのかと思うと、毎日が恐ろしくなってきたというのです。

非常に豊かで強い感受性をもった彼女を前に、慎重に言葉を選びながら、声をかけさせていただきました。それは、阿弥陀如来がみそなわす世界が、本当の世界であること、人は、死んで終わっていくのではないこと、如来様が、いつも安心してほしいと願っておられ、生きても死んでも、いつも寄り添ってくださっていること、などをお話させていただきました。どこまで、彼女の心に届いたのかは分かりません。しかし、小さい頃から休まずに日曜学校に通ってくれている子どもです。彼女には、如来様の大きなご縁が働いています。きっと、この日のことを大切に受け止めてくれる日が来るに違いありません。お話しながら、怯え悲しむ彼女をあたたかく包み込む如来様のお慈悲があることを、改めて、ありがたく味わったことでした。

自分の死を受け止めることのできる生き物は、人間だけだといいます。なぜ生まれてきたのか、なぜ死んでいかねばならないのか、生きる意味と死んでいく意味に心を傾けていくところに、本当の人間らしさが生まれてくるのではないでしょうか。数年前から、大都市部では、葬儀を勤めずに火葬にする直葬というものが、行われるようになってきたといいます。さらに、最近では、直葬にした上、遺骨さえも火葬場で処分してもらう零葬と呼ばれるものまで行われることがあるそうです。不気味な恐ろしさを感じます。大切な方を弔うことが、ゴミを処分することと同じになっています。大切な方をゴミとして処分する方々は、自分もまた、ゴミになっていくことに、何の疑問も感じないのでしょうか。命を、役に立つか、立たないかでしか見ることのできない方は、生まれてきたこと、生きていることを、心から喜ぶことができない人です。本当の幸せを知ることはないでしょう。自分が、どれほどのありがたい心に恵まれて きたのかも知ることなく、自分にとって役に立たないから、ゴミとして処分するというのは、鬼畜の仕業としかいいようがありません。

親鸞聖人が、二十年間の比叡山での厳しい修行の末、悩みに悩み抜かれて、法然聖人の下へ赴かれたのは、「生死出づべき道」を明らかにするためだったと、奥様の恵信尼様が、お手紙の中で綴っておられます。「生死出づべき道」というのは、生きることも、死んでいくことも、同じように尊くありがたいこととして受け止めていける道です。死んでいくことも、尊く有難いこととして、大切に受け止めてゆける世界があるのです。それは、人ではなく、阿弥陀如来がみそなわす仏様の世界なのです。そして、その仏様の世界を聞く耳を持ち、まことであると受け止めてゆける心を持っているものを人間というのです。

命の隠しようのない事実の前に、心締めつけられ、どうしようもなく立ちすくんでしまう、そんな人間らしい私を、如来様は深く慈しみ愛してくださいます。どうしようもない苦しみを抱える私の為に、如来様はお慈悲を起こされたのです。人間らしい心を大切に、お慈悲を味わっていきたいものです。

2014年5月1日