先日、ある御門徒の50回忌のご法事でのことです。御当主から、次のようなご挨拶がございました。
「皆様、本日は、ようこそお参りくださいました。親の50回忌を勤めるというのは、世間では、不幸なことといいます。それは、おそらく、早くに親を亡くして苦労の多い人生を送ったということで、そう言うのだろうと思います。しかし、今日、私は、父親の50回忌のご縁を頂けたことは、幸せなことだと思っております。九十歳を超えるこの歳まで生かさせていただいて、父親の50回忌のご縁を頂けたことは、如来様のお手回しとしか思えません。父親と再び出会える世界は、お念仏を置いて他にありません。今日、私は、このご縁を頂いて、ますます御恩報謝に努めにゃならんと思いました。本日は、ありがとうございました。」
法味溢れる、大変ありがたいご挨拶でした。このご挨拶の中に、浄土真宗のみ教えの大切な味わいが、たくさん込められています。
まず、ご法事のご縁を頂くことは、それが、どんなご法事のご縁であっても、幸せで有り難いものだということです。法事というのは、故人のために勤めるものではなく、故人のおかげで勤めさせていただくものだからです。法に遇うご縁が、法事です。そして、そのご縁は、故人が尊いお導きとなって結んでくださったものです。そうしますと、法事というのは、故人からのプレゼントとも味わうことができます。私のことを大切に思ってくれる故人が、仏法という最高のプレゼントを贈ってくださったのです。法事のご縁に遇えるというのは、本当に幸せで有り難いことなのです。
そして、もう一つは、如来様のお手回しの中で自分の人生が営まれているということです。人生というのは、生まれることから死ぬことまで、私の思いのままには決してならないものです。しかし、私は、思いのままの人生を望み求めていきます。ここに苦悩の原因があり、人生を虚しくする根本があると教えるのが、すべての仏教に共通する教えなのです。思いのままにならなかった人生を、私たちは、本当に喜ぶことができるでしょうか。後悔と虚しさを抱きながら終わっていく人生ほど、惨めなものはありません。どんな人生であっても、この人生は、私にしか生きることのできない掛け替えのないものです。その替え替えのない私だけの人生を、如来様は、慈しみ愛してくださいます。私の人生には、その慈愛に満ちた如来様の働きが満ち満ちているのです。私のことを慈しみ愛してやまない働きがあることを聞かせていただくとき、人生の様々な出来事は、すべて如来様の温かい眼差しの中でのことであることに心が開かれていきます。思いのままにならない苦労の多かった人生も、如来様の慈愛の賜物であり、私を大切に育てるためのお手回しだったのです。その不思議に素直に感動できる心を信心ともいうのです。
そして、最後は、人生の目的は、御恩報謝の中にあるということです。私たちは、皆、何のために生きているのでしょうか。生きる意味と目的を、はっきりと確認している方が、どれほどいらっしゃるでしょうか。多くの方は、自分の望みをかなえるため、働くため、楽しむため、などなど様々な生きがいを自分なりに見つけて人生を有意義に生きようとします。しかし、それらが出来なくなったとき、人は、生きる意味がなくなってしまうのでしょうか。生きる価値のない人間など、世界中、どこにもいないのです。どんな人間でも生きる価値があり、そのままで認められていく世界があるのです。御恩報謝というのは、自分が愛され慈しまれている深い感動に抱かれながら、自分を一途に愛してくれるもののために生きていくということです。如来様のお慈悲に感動できる者は、如来様のお慈悲のために生きようとする人生が開かれてきます。阿弥陀如来様が、私に願われる通りの人生を、正しく歩もうと慎んでいきます。仰せを聞き、教えを素直に聞き、如来様のお慈悲に傷がつかないように、誰もがお慈悲に包まれていくような、周りの命を癒していくような日々を心がけていくのです。
何歳になっても、感動と喜びの中で、一つ一つの仏事のご縁を大切にできる人生でありたいものです。