煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界

先日、ある御門徒の七回忌のご法事にお参りさせて頂いた時、御当主のご挨拶にハッとさせられたことがありました。
「父が亡くなったのは、阿知須できらら博が開催された年でした。」
この一言にエッという思いがしたのです。きらら博から、もう七年・・・
あの頃、私は、龍谷大学の大学院で真宗学という学問を学んでいましたが、周りが将来のことも心配し始めた頃でもあり、「山口へ養子に」という話も具体的になりつつある時期でした。前住職・前坊守から「山口県民になるなら、きらら博には、ぜひ行ってみてください」という勧めもあり、現坊守と二人で遊びに行ったことを思い出します。それまで、根っからの関西人だった私が、山口県という関西とは異なる雰囲気に初めて触れたのが、あのきらら博でした。まだ山口に対する新鮮さが消えやらぬ私に、七年という数字が、一瞬、私の心をざわつかせたのです。

今年は、私に、きらら博に行くことを勧めてくださった前住職・前坊守の三回忌を迎えます。そして、前住職・前坊守の往生と同じ年に誕生した新発意は、今年、二歳になります。ご法事の準備をしながら、横で動き回る新発意をみて、七回忌で小学一年生、十三回忌で中学一年生という風にたびたび坊守と二人で思いを馳せることがあります。
つい最近、歩き始めた新発意が小学一年生になる七回忌は、私にとって、遠い未来のような感覚でいました。しかし、三十歳を前にした今、年々、加速する時間の中に身を置いている気がします。時間は、頭が計算するものではなく、心が感じるものです。時間が早く過ぎていくように心が感じるというのは、一瞬一瞬の中に感動できるものが少なくなってきているということでしょう。歳を重ねるにつれ、当たり前のものが増え、感じる心が鈍くなってきているのです。
同じ七年でも、十歳から十七歳までの頃を振り返ると、今でも、果てしなく長くぎっしり中身がつまったものとして、私の心に刻まれています。老化というと、体のことばかりが注目されますが、心も確実に老化し、鈍ってきているのです。体も心も次第に鈍ってゆき、やがて滅びるように死んでいくのが我々凡夫の結末でしょう。
そのあたりのことを親鸞聖人は、次のように語っておられます。

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」

「火宅無常の世界」とは、火に包まれた家が、見る見るうちに滅びていくような無常の世界という意味です。まさしく、今、私が身を置いている世界です。そして、その世界には、真実と呼べるものはなく、すべてのものが、空言、戯言であり、ただお念仏だけが真実であるというのです。
真実なものと偽りのものとの違いは、安定しているかどうかにあります。火宅無常の世界で、空言、戯言に振り回され、やがて滅びるように死んでいくことに不安を覚えない人はいないでしょう。心に不安があるということは、不安定な在り方、つまり、真実でない偽りの在り方をしているということです。偽りの在り方をしているということは、逆に言えば、他に安定した真実な在り方があるということでもあります。教えの言葉となって私に届き、念仏という形で、常に私を真実な在り方へ呼び覚まそうとするのが、阿弥陀如来の働きなのです。
安定した真実の心に触れた不安定な心は、自ずから感動せざるをえません。お念仏を響かせながら一瞬一瞬を過ごす人は、いつまでも感動に溢れる実り豊かな時間を過ごしていくのでしょう。

空言、戯言に振り回されてばかりの私であったことを、あっという間に過ぎた七年が教えてくれました。虚しい十年を生きるよりも、実り豊かな一瞬を過ごしていきたいものです。

2007年5月1日