お盆も過ぎ、子ども達の夏休みも終わろうとしています。世間では、「お盆休み」という言葉がありますが、お寺では、一番忙しくなるのがこのお盆です。およそ、一週間の間に猛暑の中、何十軒と御門徒のお宅にお参りするのは、若い住職であっても一苦労です。
お盆の仏事は、世間一般、または、浄土真宗以外の他の御宗旨では、先祖供養の意味でお勤めするのが通例となっています。しかし、浄土真宗のご法義は、どこまでも如来様が先に働いてくださっていることを聞かせていただくばかりです。お盆の仏事も、ご先祖をご縁にして、私自身が、お経を聞かせていただくところに意味があります。
しかし、住職自身、先祖供養の意味でお勤めしている意識はありませんが、かといって、浄土真宗のお盆の意義を一軒一軒、時間をかけて説明している暇もありません。また、説明したところで、それですぐに浄土真宗のご法義が味わえるようになるとも思えません。人の心は粘土細工ではありません。様々なご縁が働く中で、少しずつ変えられていくのです。猛暑の中のお盆参りも、そのような仏縁の一つとなってくださればと思いながらお参りしています。
しかしながら、お盆参りは、参る住職自身が、一番多くのご縁をいただいている気がいたします。その中でも、私の心に響いた最も多かった言葉が、「お寺にお参りしたいのですが、事情があってなかなかお参りできません」というものです。事情は、人によって様々ですが、お寺にお参りしたいという強い気持ちを持ちながら、どうしてもお参りできないという方が、御門徒の中にたくさんおられることに、私自身、様々なことを考えさせられました。
親鸞聖人の有名なお言葉の一つに、次のようなものがあります。
「なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」(『歎異抄』第十三条)
何事も自分の心のままになることは一つとしてないといわれます。人殺しをしない私でいられるのも、私の心が善いからではなく、人殺しをするだけの業縁が働いていないからであり、もし、人殺しをするだけの業縁が私の上に働けば、殺したくないと思っても、千人・百人の人を殺してしまうこともあるというのです。
厳しい言葉ですが、これは事実を的確に示してくださっています。戦争などは、そのよい例でしょう。戦争という環境は、多くの優しい人までを人殺しに変えていきます。また、逆に、無残な殺人を犯した死刑囚であっても、中には、その後に様々な縁に触れることにより、死刑囚とは思えないような美しい詩を書いたり、優しい眼差しをみせる人もいます。
すべては、無数の縁によって、この私は動かされているのだというのが、親鸞聖人の人生に対する味わいです。その無数の縁の中、この私に仏法を聞く心を起こさせ、仏様の心をありがたいと味わえる身に育ててくださった御縁のことを、親鸞聖人は「本願他力」と呼んでいます。そして、その御縁は、偶然、私に働いたのではなく、如来の誓いによって働いた必然的な御縁だというのです。
お寺にお参りしたいという心が起こったことは、その人の上に如来様が働いている証拠だともいえます。お寺にお参りすることすら心のままにならない私たちですが、その心の上には、確実に阿弥陀如来様が働いてくださっています。そして、その働きは、同時に私をお浄土へ導く働きでもあります。南無阿弥陀仏とお念仏申す中に、そのことをよくよく味わせていただきましょう。