先日、9月20日に正法寺において、敬老会が行われた時のことです。今年、90歳を迎えられたご婦人の方が、一枚の紙に次のような詩を綴って持ってこられました。
「御仏の笑顔みつめて有り難く 南無阿弥陀仏で 今日も歩まん」
「今も今見守られてる有り難さ 笑顔でお返す 南無阿弥陀仏」
司会をしてくださっていた総代のお一人が、祝賀会の席で、この詩を紹介されたとき、当のご本人は、一言「私は、つまらない人間です」と言われただけでした。
30年の人生しか歩んでいない私にとっては、90年という人生も、また、老いの苦しみも想像がつきません。しかし、もし90歳まで生かせていただいた時、この方のような味わいを持って生きれたなら、どんなに幸せだろうかと思いました。
お釈迦様が、生・老・病・死の四苦の中にお示しくださっている老いは、時代や状況に関わりなく、すべての人間に訪れる避けようのない苦しみであり、また、人間にとっての根本不安でもあります。しかし、お釈迦様がお示しくださったのは、単に苦しみや不安という事実だけではありません。「老い」が苦しいと感じる心の在り方を超えていく道をお示しくださったのが、仏道というものです。しかし、本来、その道を歩むことは、想像を絶する厳しい道でもあります。私たち人間の心の在り方を超えていくということは、言い換えれば、人間であることを超えていくということでもあります。それ故に、姿形は同じであっても、悟りに到達した人を人間と区別して仏とお呼びするのです。仏道修行というのは、今でも、比叡山等で真剣に取り組んでおられる修行僧の方々がおられますが、本当に私たちの想像を絶する厳しさがあります。親鸞聖人自身もその仏道修行に行き詰まり、山を降りたお一人でした。しかし、それは、「しんどいからやめた」というものではなく、真剣に悟りを求める心から決断されたものだったのです。そして、やがて親鸞聖人は、法然聖人と出遇い、お念仏のみ教えを開いてゆかれます。
南無阿弥陀仏というお念仏は、阿弥陀仏のお慈悲が言葉という姿をとって、私の上に現れ出たものです。慈悲というのは、親心にも喩えられますが、人の痛みや苦しみを自らの上に引き受け、その人の幸せを心から願い、それを実現していく心です。南無阿弥陀仏を通して、阿弥陀仏のお慈悲に本当に触れた人は、それがどんな状況であれ、心は安定してゆきます。母親がどんな場所、どんな状況に移動しようとも、その母親の胸に抱かれている赤ちゃんの心は、その母親の胸に抱かれている限り、安定しているようなものです。
「老い」や「病い」や「死」が襲ってきても、阿弥陀仏の慈悲心に抱かれているならば、それらは単なる苦しみや不安をもたらすものではありません。阿弥陀仏の慈悲心というものは、その人が苦境に立たされるほど、深く響いてくるものです。老いながら、病みながら、死を迎えながら、「有り難い」と自分の人生を味わえる心が恵まれていくのです。まさしく、生・老・病・死という苦しみを超えていく状況がその人に訪れてゆきます。
しかし、阿弥陀仏に抱かれている自分自身は、どこまでもつまらない凡夫でしかありません。つまらない凡夫のまま、聖者のような姿を現していくのが、他にはない念仏者の真髄ともいうべき特徴でしょう。そこのところを法然聖人は、「愚痴にかえりて、極楽に生まる」という言葉で表されています。
みごとに「老い」を克服されている心情を綴りながら、「私はつまらない人間です」と吐露されたのが、私にはとても印象的でした。私どもも、南無阿弥陀仏という深い阿弥陀様のお慈悲に抱かれながら、深い安心の中で、一つずつ歳を重ね、人生を味わってゆきたいものです。