先日、ある男性の御門徒の方から、次のようなお尋ねがありました。
「ご院家さん、私は、このところ一つ胸に引っかかるものがあるので聞いてください。私は、無農薬で野菜を育て、それを出荷していますが、昨年の夏は、特に暑い日が続きました。暑い日が多いと野菜に付く虫の数も増えます。私は、その虫を、薬を使わず、一匹一匹手にとって指で潰しています。しかし、動いている命ある虫を、指で一匹一匹潰すことに、とても心が痛むのです。御法話の中で、むやみな殺生がどれほど罪深いことであるかはよく聞いています。しかし、これを止めては仕事になりません。浄土真宗の御法義の上から、今の私をどのように味わったらよろしいのでしょうか。」
突然、呼び止められての思慮深い質問に、思わず口ごもってしまいました。しかし、それと同時に、命を奪うことの申し訳なさを敏感に感じておられるその心の豊かさに頭が下がる思いがいたしました。
その時は、突然の真剣なお尋ねに、何とか答えなければならないと思い、次のようにだけお答えしました。
「阿弥陀様は、私どもが罪深い故に、浄土に生まれさせたいという願いを起こされたのですから、そのままでいいと思います。」
このようにお答えしながら、私の胸には何かすっきりしないものが残っていました。答えた方がそのようなことですから、おそらく、答えを聞かれた方も、すっきりうなづけなかったであろうと申し訳なく思っています。
私の胸に残ったどこかすっきりしないもの、それは、「そのままでいい」という言葉がもつ響きです。この言葉には、どこか、人間の開き直りとも受け取れる都合の良さをその中に含んでいるような気がするのです。親鸞聖人は、ご自身のことを『歎異抄』の中で、「とても地獄は一定すみかぞかし」と述べられています。「どこまでいっても、地獄を住処としかできない罪深い身である」という述懐です。しかし、次のようにも述べられています。
「それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
本願のかたじけなさを、自らの罪深さを通して味わっておられることが分かります。
私達は、普段、自分が罪深いということは、微塵も思わずに日々を過ごしています。しかし、そんな私にも自らの罪深さを知らされる時があります。それは、他の命と感応したときです。自分の指で無惨に潰されていく虫達の痛みや悲しみに心が震えたとき、はじめて、自らの罪深さが知らされていくのだと思います。そして、その悲しみや痛みを敏感に感じていく豊かな心は、お聴聞を通して、如来様に育てられていくものなのです。
如来様とは、大悲者です。悲しみや痛みを感じない者に如来様のお心を感じれるはずがありません。親鸞聖人が、自らの罪深さを通して、如来様のお心をありがたく味わっておられることは、言い換えれば、自らの心を震わせる深い悲しみ、深い痛みを通して、純粋な大悲の心に出会われているということでしょう。
普段、自分が善人であるかのような錯覚をして平然と地獄へ向かって命をすり減らしているのが私の真実の姿です。しかし、そんな私に自らの罪深さを知らせると同時に、それを包み込むような大悲の心でもって、私を浄土へ生まれるにふさわしい者に育てあげることが、仏陀としての命をかけた誓いなのです。
私自身がこれまで無数に与えてきた深い悲しみや痛みに心震わされる時、「そのままでいい」という言葉が出てくるはずがありません。この身に深い悲しみを刻みながら、申し訳なさの中に如来の大悲を慶んでいく姿こそ、念仏者の尊い姿というべきでしょう。