今年も御正忌報恩講が無事お勤めされました。報恩講というのは、「恩に報いる集まり」という意味で、親鸞聖人の御命日に聖人のご苦労を偲ばせていただき、聖人九十年のご生涯をかけて、深く味わいお示しくださったお念仏の道をこの身に頂き、親鸞聖人、そして、如来様に御報謝させていただく、浄土真宗において、最も大切にすべきご縁です。平成二十四年の一月十六日が親鸞聖人の七五〇回忌にあたりますが、浄土真宗の御門徒の方々は、約七五〇年の間、どのような時代状況の中にあっても、報恩講だけは、欠けることなく必ずお勤めしてきました。私達が、今、浄土真宗の御法をお聞かせいただけるのも、多くの方々のご苦労が、その背景にあることを忘れてはなりません。
正法寺の報恩講においても、毎年、多くの方々の心温まる御報謝によって、お勤めされています。その中で、毎年、多くの大根を御報謝くださっている方から、次のようなお話をお聞かせいただいたことがあります。
「私は、お嫁に来て、若い頃から報恩講にはお参りさせていただいておりました。若い頃、報恩講にお参りさせて頂いた時、腰が二つに折れ曲がっているようなお婆ちゃんが、荷車にいっぱいの大根を積み込んで、お寺まで歩いて運んでいる姿を何度か見かけました。その姿を見て、報恩講をお勤めするというのは、ありがたいことだなと思いました。自分も、年老いたら、あんなお婆ちゃんになりたいなと思っていたんです。」
なんとも、心温まるお話でした。改めて、浄土真宗のお寺というものが、多くの方々の志によって支えられてきたものであることを味わせていただきました。
この「御報謝」という言葉ですが、基本的には、如来様や親鸞聖人に対してお礼の気持ちを表していくことを意味する言葉です。一般的には、お寺に懇志を上げたり、御法座のお手伝いをしたりと、ご法義を守り伝えていくお寺に対して、その運営を助けていくことを、「御報謝させていただく」という具合に使われています。
しかし、蓮如上人は、当時の報恩講の際に書かれた『御俗抄』と呼ばれるお手紙の中で、御報謝の最たるものは、ご信心をその身にいただくことだとお示しされています。浄土真宗の上において、「信心」というのは、一般的に考えられているような「固く信じる心」を意味しているのではありません。蓮如上人は、信心のことを「安心(あんじん)」とも表現されていますが、浄土真宗の信心とは、如来様の仰せを聞かせていただき、素直に安心させていただくことをいいます。
先日、十ヶ月になる娘と二人っきりで車の後部座席に座ったことがありました。夜で車の中は真っ暗、おまけに、いつも一緒にいてくれるお母さんはいません。案の定、しばらくすると泣き出しました。そして、私の腕の中で、体全体を使って暴れだしました。不安だったのでしょう。私は、無意識のうちに何度も次のような言葉を娘に聞かせていました。
「大丈夫、大丈夫、お父さんがいるから大丈夫。」
いっこうに泣き止まない娘に、何度も何度も、そんな言葉をかけている時に、ふと味わえたことがありました。
「お寺に生まれて小さい頃から、何度も耳に南無阿弥陀仏を聞きながら、自分の都合で落ち込んだり、悲しんだりし、時には、自分を見捨てようともし、それでいて、いつも死の影に怯えている。そんな私の姿は、如来様からすれば、私の腕の中で泣き叫び暴れるこの娘の姿だったのではないだろうか。」
「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀という命の親様が、私に対して「大丈夫、大丈夫、私がいるから大丈夫。全部私にまかせなさい。お願いだから、私の心を聞き取って安心しなさい。」と耳元で呼びかけている親の呼び声なのです。その親の呼び声を聞き取って、ほっと安心し、親の胸に体全体を預けていく姿が信心と表現されるのです。
不安だらけで泣き叫ぶ娘を腕の中に抱きながら、親の悲しみの一端を味わえたような気がします。親にとって、腕の中にありながら、不安だらけで怯えている子どもの心を感じ続けることは、何よりも悲しいことでしょう。子どもが、親の呼び声を聞き取り安心し、親の胸に体全体を預けてくれたとき、親もまた、ほっと安心できるのではないでしょうか。蓮如上人が、信心をこの身にいただくことが、なによりもの御報謝だとお示しくださった意味はここにあるのです。
安心させていただける如来様の腕の中にありながら、自分の都合に振り回され地獄に堕ちていく姿は、親子共に救われない、なんとも悲しい姿でしょう。安心させていただけるまで、何度も何度も、如来様のお心を聞かせていただくのが、お聴聞です。共々に、本当の御報謝をさせていただける日暮しでありたいものです。