仏法には明日と申すことあるまじく候ふ

今年も一ヶ月を残すところとなりました。蓮如上人のお言葉の中に、「仏法には明日と申すことあるまじく候ふ」というものがあります。浄土真宗においては、一日一日が臨終です。いつ終わっても不思議でない命であることを知らされながら、お念仏申す中に、生きても死んでも尊い意味を味わえる日々を過ごしてゆきたいものです。

昨年から、正法寺の御門徒の中に、家庭法座を営まれる方々が出てこられました。自宅において、ご近所の方やご友人を招いてご法座を開かれるのです。二ヶ月に一度程度の割合で開かれ、その都度、住職がお参りし、お取次ぎをさせていただいています。

先日も、昨年から続いているある一軒の御門徒宅から家庭法座のご依頼がありました。いつものご法座のつもりでお参りさせていただきますと、何かいつもと様子が違います。いつも集まっておられる方々が、一人もおられません。集まっておられる方々は、はじめてお会いする方々ばかりです。しかし、集まっておられる方々は、住職のことを良く知っておられるようなご様子でもありました。その不思議な雰囲気の正体は、次のようなことでした。

「ご院家さん、実は、今日は、私の還暦の誕生日なんです。今日、集まってもらったのは、私の親と兄妹です。還暦の誕生日にみんなに集まってもらって、ご法座のご縁に遇ってもらいたかったのです。」

 住職自身、この奥様のご法義に対する真っ直ぐな姿勢に、ただただ頭の下がる想いがいたしました。

誕生日というのは、通常、人からお祝いしてもらうものです。自分で自分の誕生日をお祝いするというのは、通常の意識の上では、あまりないといっていいでしょう。しかし、よくよく考えてみると、誕生日を迎えるということは、自分自身にとって、とても大きな意味を持つものではないでしょうか。多くの人々は、人としての生を受けたことを、ごく当たり前のように思っていますが、人としての生を受けたことは、大きな不思議です。命には、無数の形があります。仏教では、命の発生の仕方を湿生・卵生・胎生・化生の四種類に分類します。湿気の中から湧き出るように発生するものから、地獄から天上界までの六道に自らの業力によって発生するものまで様々です。その中で、人として生を受けたことは、無数の縁が私の上に整い、たまたま得がたい生を受けたとしか言いようがありません。

如来様の願いは、十方の衆生を対象とされています。生きとし生けるものが、仏の子であり、救いの対象です。しかし、その中で、如来様の深い願いに気づき、それを受け止めることができるのは、人間だけではないでしょうか。如来様の願いに気づいていくということは、生の意味、死の意味を知らされていくことです。生まれたから、ただ生き、死んでいくのであれば、人として生まれた価値はありません。

しかし、その人の中にあっても如来様の願いを受け止めていくことは、非常に稀なことです。人として生まれ、仏法を聞く身にさせていただいていることは、私という力をはるかに超えたところで起きている不思議なのです。その不思議のことを親鸞聖人は、如来の本願力と味わっておられます。如来様の深い願いの働きが、私をここまで導き育ててくださったのです。

蓮如上人の晩年のお言葉に、次のようなものが残されています。

「わが妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬはあさましきことなり。宿善なくはちからなし。わが身をひとつ勧化せぬものがあるべきか。」

 妻と子に如来様の願いを伝えることができないのは、あさましいことであるというのです。それは、仏法を聞かずに死なせていくことは、人として不幸なことだからです。逆に、人として、仏法を聞かせていただくことは、何よりも幸せなことなのです。

還暦の誕生日に、有縁の方々を集めて仏法のご縁を与えていくことは、お世話になった方々への何よりもの恩返しです。今生での別れは、必ず訪れます。しかし、その時、同じ如来様の願いを受け止めた者同士であったなら、またお浄土で会うことができるのです。

一人ではなく、大切な方々と共に仏法を聞ける身でありたいものです。

2010年12月1日