日常の生活が、仏道であるような尊い日暮し

昨年、あるご法事のお斎の席でのことでした。当家の奥様から、故人について、次のようなお話を聞かせていただきました。

 「今日、ご法事を勤めていただきましたお婆ちゃんは、ことあるごとにお念仏をしている人でした。お嫁にきた最初の頃は、それが大変不自然に感じたものです。若い頃の私は、『お婆ちゃん、人が死んだわけでもないのに念仏するなんて、そんな縁起の悪いことやめてください。』などと言って、お念仏しているお婆ちゃんを、よく咎めたものです。あれから私自身もお寺の御法座でお聴聞させていただくようになり、お寺でお話を聞くたびに、『お婆ちゃんになんてひどいことを言っていたんだろう』といつも後悔するようになりました。」

 お念仏の人生を歩まれた方というのは、何年経過しても、そこにお念仏の薫りをきちんと遺してくださいます。この度も、大変ありがたいご法事のご縁に遇わせていただいたことでした。

最近、保育園の仕事で、山口県下の私立保育園の園長先生方とご一緒することが増えてきました。その中で、住職として大変勉強になるのは、僧侶の方が大変多いということです。まず、そこで驚かされたのは、浄土真宗の御住職と思っていた方が、全く別の御宗旨であることが大変多いことでした。髪の毛を伸ばし、結婚をして家庭をもっておられるところからして、浄土真宗の御住職だろうと思い込み、お話していると、「いえ、私のところは日蓮宗です」「いえ、私のところは天台宗です」という言葉が返ってきて、大変恥ずかしい思いをすることが度々ありました。

本願寺第三代門主の覚如上人のご長男に存覚上人(ぞんかくしょうにん)という方がいらっしゃいます。この方は、仏教学者として、対外的にも大変活躍された方です。この存覚上人が、他宗旨の学者に対して浄土真宗の真実性を論じるときに、他宗旨の学者が、その教えの真実、不真実を問題にするのに対し、存覚上人は、必ず「時機相応」という論拠をもって浄土真宗の真実性を論じておられます。「時機相応」というのは、今の時代と今の時代に生きる人々に即しているという意味です。真実という意味からすれば、他宗旨の教えも経典を拠り所としている限り、それは仏説であり、どの教えも真実といえます。しかし、その教えが、今の時代に生きる人々の拠り所となりえなければ、それは、絵に描いた餅のようなものです。

浄土真宗という教えが、なぜ時機相応であるのかというと、それは、世俗の中で生きる普通の人を目当てとした教えだからです。普通、仏教の教えというのは、世俗的な在り方を否定し、聖者であることを求めます。しかし、現代において、世俗的な普通の生活を捨て、出家をして仏道に邁進できる人というのは、ほんの限られた人ではないでしょうか。ほとんどの人は、世俗の中でしか生きていけません。世俗を捨てて出家せよと説かなければならない天台宗や日蓮宗の僧侶自身でさえ、現在は、世俗の中でしか生きていけないのが実状としてあるのです。

もちろん、浄土真宗も仏教である以上、世俗的な生き方を肯定しているわけではありません。しかし、否定をしながらも、捨てよとは教えないのです。それは、この教えが、世俗の生活の中に世俗的な生き方を超えていく道があることを教えるものだからです。世俗の生活というのは、人里離れた出家の生活よりも、人としての悩み苦しみが一層深まる場所でもあります。しかし、そこにこそ、阿弥陀如来の大悲は、強く働いていくのです。

お念仏を申す日暮しというのは、言い換えれば、阿弥陀如来に抱かれ、育てられながら過ごすということです。渋柿が、太陽の光によって少しずつ熟され、甘い干し柿になっていくように、お念仏を慶ぶ日暮しを送る人は、世俗の中にあっても、阿弥陀如来の光によって、少しずつ渋みが取れ、お浄土に生まれるにふさわしい姿に熟されていくのでしょう。

姑さんのお念仏を咎めた若いお嫁さんが、世俗の中で時を重ね、自分自身もお念仏を慶ぶようになった姿は、まさしく浄土真宗という仏道を歩んでこられた尊い証です。日常の生活が、仏道であるような尊い日暮しをさせていただきたいものです。

2010年3月1日