如来様にお礼を申せる人生でありたいものです

先日、ある御門徒の二十五回忌のご法事でのことでした。この度、二十五回忌を迎える御当主のお母さんが、生前、大変ありがたい念仏者であったことは、以前からお聞かせいただいておりましたが、改めて、そのことをお尋ねさせていただきました。すると、御当主から、次のようなお話を聞かせていただくことができました。

「母は、島根県の大変ご法義に厚い土地の出身です。今でも、母の実家の法事にお参りさせていただきますと、多くの方々のお念仏が響く、大変ありがたいご縁に遇わせていただけます。母も生涯、如来様を本当に大切にした人でした。晩年は、体が不自由になり、お寺様には、あまりお参りできませんでしたが、朝夕、お仏壇の前に必ず座っておりました。母が、お浄土へ参らせていただく少し前に、母から呼び寄せられて言われたことがあります。

『〇〇や(御当主のお名前)、わしがおらんようになっても、お仏壇に灯明をあげて、毎日、如来様にお礼申せや』
これが、母と交わした最後の会話でした。私が、仏法を聞き始めたのも、この母の最後の言葉があったからです。」

 二十五回忌を迎える故人とは、当然のことながら、お会いしたことはありませんが、この方のご法義に溢れる温かい薫りが、直に伝わってくるようなお話でありました。特に、「如来様にお礼申せや」との言葉に、浄土真宗の御法義を、正確に味わっておられたことがうかがわれ、大変ありがたく聞かせていただいたことでした。

仏様に手を合わせることを「お礼を申す」といただいていくことは、浄土真宗独特のものだといってよいかと思います。一般的に、仏様に手を合わせることは、「仏様にお願いをする」「仏様に祈りをささげる」などの意味があるように思います。実際に、この度の東日本大震災において、他の御宗旨の対応等を拝見させていただきますと、鎮魂や祈祷といった言葉が目立ちます。鎮魂というのは、亡くなっていった方の魂を鎮めるということですが、これは、亡くなった方の死後の幸せを、仏様に一心に願うことで実現していこうとするものです。また、祈祷というのも、被災された方々の平安を一心に仏様に対して祈ることによって実現していこうとするものです。どちらも、こちらの強い思いを仏様に届けて、仏様に動いてもらおうとするものと言えるでしょう。多くの方々の救いを願って、仏様に心を捧げていく姿は、一面では、尊い姿です。なぜなら、それは、自分ではなく、自分以外の多くの方々の幸せを純粋に願っている姿だからです。

しかし、その一方で、この姿は、大きな不安を抱えている姿でもあります。なぜなら、この姿は、仏様に出会っていない姿だからです。仏様に抱かれている実感があれば、仏様に祈る必要はありません。仏様の活動が実際に感じられないからこそ、一心に祈りを捧げていかなければならないのです。

浄土真宗で「如来様にお礼を申す」といただいていくのは、今ここで、如来様に出遇っていく御法義だからです。親鸞聖人が慶ばれたお念仏は、如来様そのものです。心の働きが具現化した最たるものは言葉です。言葉を聞くと、その人が、どんな心を持っているのか一目瞭然です。また、言葉は、一言で人をズタズタに傷つけることがある一方、一言で、その人の人生を救うこともあります。人は、心が具現化した言葉によって、深く傷つきもし、深く安らいでいくこともするのです。如来様というのは、言葉となって働き、その言葉でもって、自らの大慈悲の心を知らしめ、私を守り育て、導こうとされているのです。私たちにとって如来様というのは、お念仏以外にはありえません。この南無阿弥陀仏の六字の言葉に込められた如来様のお心を聞かせていただくとき、私たちは、今ここでお念仏となって私に届いている如来様に出遇っていくのです。如来様に願っていくのではなく、如来様に願われている私に出遇わせていただくのです。

「如来様にお礼申せや」というお勧めは、如来様に実際に出遇っていかれた方だからこそ申せるものです。そこには、深い安心が伴っていたはずです。どんなことが襲いかかろうとも、如来様にお礼を申せる人生でありたいものです。

2011年5月1日