自死をした人は、お浄土へは参らせていただけないのでしょうか?

先日、ある御門徒の方から、次のようなご質問をいただきました。

「御院家さん、自死をした人は、お浄土へは参らせていただけないのでしょうか?以前、お寺の御法座の折に、御念仏に出会っていない人は、お浄土へ生まれることはできないとのお話を聞かせていただいたことがあります。そうしますと、御教えに遇えないまま、自死などで亡くなっていった人は、お浄土へは参らせていただけないということでしょうか?」

 以前にも、自死で亡くなっていった方の味わいについては、ご質問をいただいたことがあり、この紙面においてもご紹介させていただいたことがあります。しかしながら、この度のご質問は、ご法義にさらに踏み込んだ問いでもあり、住職自身、改めて、考えさせられました。もう一度、この自死の問題について、改めて如来様のお心に尋ねていきたいと思います。

浄土真宗も仏教である以上、因果の道理から逸脱することはありません。お浄土へ生まれるという結果がもたらされるには、その原因となるものがなければなりません。親鸞聖人は、その原因となるものを、如来様から与えられる他力の信心とお示しされています。信心という原因がなければ、お浄土へ生まれるという結果は、もたらされないということになります。それでは、阿弥陀如来が、御本願において「十方衆生」つまり「すべての命を救う」と誓われていることをどのように考えれば良いのでしょうか?信心を得た者だけが、お浄土へ参れるとしたならば、「すべての命」とは言えないことになります。

そもそも、親鸞聖人が示された信心とは、どのような心をいうのでしょうか?親鸞聖人は、信心については、様々なところで詳しく解釈されておられますが、その中で、重要なのが「聞即信」という解釈です。「聞」というのは、如来様の願いをそのまま疑いなく聞き受けることを意味します。如来様の「必ず助ける」との願いをそのまま素直に聞き受ける時、素直に聞き受けた人の中で如来様の願いは響き、「必ず助かる」という安心に変わります。これが「聞即信」、つまり、「聞くことがそのまま信ずることである」ということの意味です。これは、「聞いて信じる」という意味ではありません。「聞こえていることが、そのまま信じている」ということなのです。そうしますと、「信心」というのは、如来様のお心が、私の中でそのまま響いている状態ということになります。この素直に受け入れた如来様のお心が、私の上に浄土という浄らかな領域を開いていくのです。如来様のお心を受け入れない限り、どこまでも凡夫の心が苦しみの世界を作り出していきます。

しかし、如来様のお心を聞き受けないということが、如来様のお慈悲から漏れるということを意味するのではありません。本来、凡夫というのは、如来様のお心を聞いて、素直に頷くことなど出来ないのです。それを、素直に頷けるような、浄土に生まれるにふさわしい身に必ず育てようと誓われているのが、阿弥陀如来という命の親なのです。お浄土に参れることが当たり前ではないのです。本来、私達は、浄土になど生まれるはずのない凡夫なのです。そのどうしようもない凡夫にこそ、如来様のお慈悲は、注がれていくのです。それが、「悪人正機」ということの意味です。苦しみを抱え、自ら命を絶つしかなかった者を見捨てていくような親様ではありません。そのような者にこそ、阿弥陀如来のお慈悲は、強く働いていきます。この度、お浄土へ生まれていったのかどうかは、人の計らいでは知ることはできません。しかし、如来様のお慈悲を私自身、深く味わせていただく時、人間の愛の手の届かないところにこそ、如来様の大悲の手は、確実にさしのべられていることを知ることができます。

そして、何よりも、この度、自死した人に対してどうすることもできなかった私が、お浄土に参らせていただき、悟りの命をこの身にいただいたならば、今度は、阿弥陀如来と同じように思うがままに救うことができる身にさせていただけるのです。そのことを親鸞聖人は、次のように喜んでおられます。

「ただ自力をすてて、いそぎさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもって、まづ有縁を度すべきなり」(『歎異抄』第五条)

「まづ有縁を度す」というのは、家族や友人といった今生で大切なご縁をいただいた方を先に救うという意味です。親鸞聖人自身もまた、親でありながら、我が子の苦しみをどうすることもしてやれなかった経験をお持ちの方でした。このお言葉からは、「親でありながら、どうすることもできなかった、しかし、今度は、必ず思うがままに救ってやることができる」といった、喜びと決意が感じられます。人の愛には、悲しくも限界があります。しかし、人の愛がはるか届かない如来様の大きなお慈悲に私も有縁の方々もしっかりと抱かれていることを喜べる身でありたいと思います。

2011年7月1日