猫の死に思う

先日、正法寺で十一年間過ごした猫が亡くなりました。原因は、老衰というよりは、何かの病気だったのでしょう。動物病院でも詳しい病名は分かりませんでしたが、次第に食事をしなくなり、痩せ細っていき、最後は、全身を痙攣させて眼も閉じずに亡くなりました。ペットというのは、正しく家族の一員です。特に、子どもにとっては、生まれてからずっと当たり前のように家族と同様に過ごしていたのですから、そのショックも相当なものだったようです。子どもが保育園から帰ってきてから、本堂でお正信偈のお勤めをさせていただき、猫の死をご縁にお念仏を聞かせていただきました。命というのは、亡くなってから、その掛け替えのなさに気づかされるものです。端から見れば、どの猫も同じように見えますが、その猫の命と深く関わった者には、掛け替えの利かない尊さ故の悲しみがあります。

浄土真宗の御法座等でよく用いられる御文に『三帰依文』というものがあります。これは、江戸時代末期の仏教学者が、『法句経』や『華厳経』などの経典の言葉を組み合わせて作られたものですが、そのはじめに「人身受け難し今すでに受く。仏法聞き難し今すでに聞く。」という言葉があります。これは、仏教の生命観を非常によく表しています。私たちは、人間として生まれて生きていることに、さして不思議を感じませんが、お釈迦様は、人間として生を受けることは、非常に難しく稀なことであると教えられています。悲しいことに、お寺で生まれ十一年間お寺で育ち過ごした猫は、とうとう最後まで仏法を聞くことはありませんでした。どんな命の上にも、如来様のお心は注がれています。しかし、それを受け取る器がなければ、如来様には出会えません。猫も如来様から一心に願われている掛け替えのない仏の子です。しかし、猫自身は、そのことを知ることができないのです。

ここに私達は、人として生まれたことの尊さを味わわなければなりません。人間というのは、他の生物に比べて、様々に優れた能力を持っています。しかし、やはり、人は心だと思います。他の生物が持ちえない深い感受性を持っているのが、人である所以ではないでしょうか。人間らしさというのは、頭が良いとか指先が器用とかではなく、やはり、豊かな心を持っているところにあると思います。親鸞聖人は、『教行信証』の中で『涅槃経』の次の文を引かれています。

 「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」

少し難しいかもしれませんが、「慚愧(ざんぎ)」というのは、つまり「はずかしい」という思いです。この「はずかしい」という思いがあるのが人であり、なければ人ではなく、それは畜生であるというのです。自分を省みて、恥ずかしいという思いがないのであれば、それは人としての生をいただきながら、畜生の生を生きていることになります。生まれがたい人に生まれながら、自分自身を省みることなく、欲望のままに人を傷つけ自分自身も傷つけていくことは、本当にもったいないことではないでしょうか?

『三帰依文』は、「仏法聞き難し今すでに聞く」と続けられます。人としての命をいただいたことも稀なことですが、さらに、その中で仏法を聞かせていただくご縁に恵まれたことは、重ねて稀なことなのです。如来様のお心をいただける感受性は、自分で作れるものではありません。不思議としか言いようのない大きな働きの中で、今の私は、このようにあらしめられているのでしょう。

親鸞聖人は、如来様というのは、様々な姿や形をとって、私を守りお浄土へと教え導くものであることを教えられています。私を、仏法のご縁に少しでも導くものは、如来様が形をとったものかもしれません。仏法を聞く素振りを見せなかった猫も、実は、如来様が猫の姿をとり、命の掛け替えのなさ、そして、人としての生をいただき仏法に遇わせていただいている尊さを教えてくださったのかもしれません。悲しい中にも、如来様の働きの中に育てられている私であることを、改めて味わせていただいたご縁でした。

2011年9月1日