「お念仏を仰ぎ聞かせていただく毎日」

【住職の日記】

今年も、親鸞聖人の御正忌報恩講が、三日間にわたり、無事勤まりました。報恩講は、親鸞聖人の祥月命日に、聖人の御遺徳を偲び、そのご恩に報いるためにお勤めする、浄土真宗門徒にとって最も大切な御法要です。何が親鸞聖人のご恩に報いることになるのかといえば、それは、大変なご苦労の中で明らかにしてくださったお念仏のみ教えに、一人一人が出遇わせていただくことです。

今年の御正忌報恩講も、三日間で延べ300人~350人の方々がお参りくださいました。下は小学生から、上は九十歳代の方まで様々です。人の人生は、掛け替えのないものです。小学生には小学生の喜びと悲しみがあります。九十歳には九十歳の喜びと悲しみがあります。それぞれが、人には分らない、自分だけの生と死を抱えています。その千差万別の生と死を、同じように優しく包み込んでいく働きが、お念仏だと思います。たくさんの方々のご苦労の中で御正忌報恩講のご縁が整い、色んなものを抱える一人一人が、一同に本堂に集まり、同じお念仏に包まれていく姿は、浄土真宗門徒にとって、やはり最も大切にすべきものだと思います。

三日間の中では、朝から夜まで法座の席に着き、和やかにお聴聞くださった中学生の子どもや、お体の悪い中、杖をつきながらお参りくださるご年配の方など、正法寺門徒の有り難いお姿に、たくさん出遇わせていただきました。人が、仏様の言葉を聞く姿というのは、立場や年齢に関係なく本当に尊いものだと思います。人は、誰もが自分が中心です。自分の思いや価値観を主張することは、誰もがすることです。しかし、自分の思いや価値観と異なるものに耳を傾けるというのは、大変、難しいことだと思います。その難しいことをさせていただけている姿の上に、不思議な如来様の働きと、親鸞聖人のご苦労を偲ばせていただくのです。

親鸞聖人が歩まれたお念仏の道は、自分を空しくして、如来様を仰ぎ、そのお心を聞き続けられた道です。親鸞聖人のお念仏は、口に称えるという行為よりも、口に称えられたお念仏を、大切に耳に聞かせていただくところに重要な意味があります。お念仏は、その声を聞かせていただくことが大切なのです。南無阿弥陀仏を通して、何を聞かせていただくのか、それは、阿弥陀如来の温かい慈しみと深い悲しみです。お念仏を聞かせていただくことを通して、私と私以外の様々な命が、仏様から深く願われている掛け替えのない尊さをもっていることに目覚めていくのです。

親鸞聖人が最も大切にされた、この「聞く」ということについて、この度の報恩講で、改めてその意味を教えていただくことがありました。三日目の御満座でのことです。御講師の先生は、御法話の最後に必ず蓮如上人の『御文章』を拝読されます。『御文章』というのは、浄土真宗のみ教えを広く伝えられた蓮如上人の御法話が文字で表されたものです。浄土真宗本願寺派の御法話の作法として、最後に御講師も一緒に、蓮如上人の御法話をお聴聞して御法座を閉じるのです。御講師の先生が、御満座の最後に『御文章』を拝読されていた時でした。お耳の遠いご年配の参詣者の方が、頭を下げられたまま、御講師の先生と一緒に、『御文章』のお言葉を、声に出されたのです。これまで何度も何度も、その蓮如上人のお言葉を耳に聞き、味わってこられたのでしょう。思わず声に出されたご様子でした。ご本人自身も、声に出されたことを気付いておられないかも知れません。多くの参詣者の方々が、静かに頭を下げ御拝聴されている中、御講師の先生の声と一緒に聞こえてくる、その方の『御文章』の声は、大変ありがたい響きをもったものでした。

思わず声に出るというのは、その言葉が、その人の命を潤すものだからでしょう。言葉が、心を満たしていくのです。どれだけ耳の遠い人であっても、自分の声は聞こえます。全く聞こえない人であっても、声が言葉にならない人であっても、自分の心が語る声は聞こえるのです。阿弥陀如来様の温かい慈しみと深い悲しみが、南無阿弥陀仏の言葉になったということの意味は、ここにあると思います。阿弥陀如来様は、私の声になってくださったのです。何度も何度も私の声になり、最後には、私が思わず声に出し聞かずにはおれない、深い愛と慈しみを私の人生に満たしてくださるのでしょう。

親鸞聖人は、その厳しい九十年の御生涯を通じて、たとえ厳しい生涯であったとしても、私がそのままで尊いと輝いていくことのできる道を示してくださいました。本年も、お念仏を仰ぎ聞かせていただく毎日を大切にさせていただきましょう。

(令和2年2月1日)

2020年2月1日