【住職の日記】
先日、ある御門徒宅の遷仏法要にお参りさせていただきました。遷仏(せんぶつ)法要というのは、ご自宅のお仏壇を別の場所に遷す(うつす)際の法要です。ご自宅の建て替えやお引っ越しの際にお勤めします。お勤めの後に、こんなご質問をいただきました。
「今お勤めされたお経は、何というお経でしょうか?どんな意味があり、どんな気持ちでお勤めすればいいのでしょうか?仏様に対して、申し訳ないという気持ちでしょうか・・・」
手短に次のようなお答えをいたしました。
「今のお勤めは、『正信念仏偈』という聖典の一番最初にあるお勤めです。親鸞聖人がお作りになったもので、浄土真宗では、日常的に最も大切にされているお勤めなんです。お勤めするときの心持ちは、お礼のお気持ちでしょうか。浄土真宗では、仏様に対して祈りを捧げたり願いを掛けたりはしないんですよ。『正信念仏偈』の内容も、親鸞聖人の阿弥陀如来のお心に出遇わせていただいたお喜びと感謝の想いが溢れたものになっているんです。」
もう少し言葉を足して丁寧に説明すればよかったという反省もありますが、改めて、お経を拝読するという行為への素朴な疑問を聞かせていただいた気がしています。
最近では、宗教的儀礼に対して意味を求めない風潮が、広がりつつあるように感じます。先日も、ある葬儀社の社員の方が、「最近は、儀礼をしない方が増えているんですよ」と言われていました。儀礼をしないというのは、お葬式を勤めないということです。お葬式を勤めないのですから、その後に続くはずのご法事も、当然のように勤めないのです。お葬式やご法事だけではありません。結婚式も、最近は、宗教的儀礼をしない方が増えています。一昔前は、仏教徒がキリスト教の教会で結婚式を挙げることが批判されたりしていましたが、最近は、キリスト教式の結婚式も激減しています。宗教的儀礼ではなく、人前式という宗教を除外した形が圧倒的になっているのです。
現代は、宗教そのものの意味が見失われている時代だと思います。宗教というと、その定義は、広義にわたります。日本の神道やユダヤ教のような特定の民族のみに広がる民俗宗教もあれば、世間で問題視されるカルトと呼ばれるものもあります。細かく見ていけば、宗教と呼ばれるものは、いくらでもあります。しかし、仏教、キリスト教、イスラム教という世界宗教が、本来の宗教の意味を持ったものと言えるでしょう。世界宗教に共通しているのは、未開の精神的境地に至った教祖が存在し、聖典があり、特定の民族を超えた人々の中に広がっているということです。
人間は、民族に関係なく、答えようのない問いを持っています。それは、私そのものに対する問いです。私とは、いったい何者なのか?生きるとは、どんな意味があるのか?死ぬとは、どんな意味があるのか?命とは、どんな意味を持つものなのか?この答えようのない根本的な問いと不安に向き合い、答えを与えていくのが、本来の宗教の役割でしょう。
宗教の意味が見失われているというのは、人としての存在意味を問うことを見失っているということです。生きることの意味を問わなくなり、死ぬことの意味を問わなくなったということです。自らの凝り固まった価値観に縛られ、問いを持たず、欲望のままに驕り、不安に振り回される姿は、仏教では、人とは言いません。畜生や修羅と呼んでいくのです。大切な人が死を迎えたとき、そこに問いを持たず、他者の命の意味、自己の命の意味を求めようとせず、ゴミを捨てるように亡骸を処分しようとするのは、人とは言えないでしょう。また、人生における不思議な出逢いに意味を問うことなく、自分勝手な喜びの中に、夫婦生活をスタートさせることは、本来の人の姿ではありません。鳥のつがいとの違いは、どこにあるのでしょうか?
お経を拝読するという仏教儀礼も、自己に対する問いを持つ人間が、仏様のお言葉を求め、大切な意味を聞いていく人らしい姿なのです。本来の宗教儀礼は、呪いや占いの類いとは一線を画するものです。お経を拝読するというのは、仏様のお言葉を聞くところに大切な意味があります。私の願いを掛けるのではなく、仏様の願いを私が聞かせていただく中に、自己や他者の尊さに出遇っていく世界があるのでしょう。それには、お経をただ拝読するだけではダメなのです。普段からお寺の御法座で仏様のお心をお聴聞する中に、本当の読経の意味が深まっていくのでしょう。自己を問い、仏様のお言葉を求めていく人間らしい日常を意識したいものです。