「人としての在り方」

新型コロナウイルスの感染拡大も、幾分か落ち着いてきました。しかし、感染拡大に対する張り詰めた緊張感は、まだ続いているように思います。先日も、ある御門徒宅のご法事にお参りさせて頂いた時、ご当主から、マスクを着用した上でのお勤めをお願いされました。職場からの指示だということでした。医療現場や介護・老人施設で働いておられる方々にとっては、未だ緊張が解けない日々が続いていることを、改めて実感させていただきました。

そのご法事の折、帰り際に、ご当主と次のようなやりとりがありました。

 「新型コロナウイルスに感染して亡くなった方の葬儀は、どういう形になるんでしょうか?テレビなどでは、すぐに火葬するようなことを言っていましたが。」
「そうですね。おそらく、火葬後、お骨のお姿になってからの葬儀になるのではないでしょうか。」
「遺族の方は、死に目にも会えないどころか、遺体を目にすることすらできないということですよね。ちゃんとお別れができないのは、つらいですね。」

今生の別れの在り方について、改めて考えさせられたことでした。今生の別れ、いわゆる大切な人との死別の経験は、私達人間境涯に生きる者にとって、もっとも深い悲しみをもたらすものでしょう。二年前にもご紹介させていただいたアメリカの自然人類学者バーバラ・J・キング博士の実証実験の結果をまとめた『死を悼む動物たち』には、カラスやカメ、ゾウに至るまで、様々な動物が大切な仲間との死別を悲しんでいることが紹介されています。死別による深い悲しみは、人だけではなく、あらゆる命あるものに共通しています。『仏説無量寿経』の中で、阿弥陀如来の願いが、「十方衆生」と、人だけでなく、あらゆる命あるものを対象とされているのは、そのことを教えているのでしょう。

仏教では、命は、無数の縁によって恵まれていることを教えています。縁というのは、原因とも言い換えることが出来ます。結果には、必ずそれをもたらした原因があります。仏教では、いわゆる結果だけが突然現れる奇跡というものを認めません。私には、不思議でたまらない奇跡のような出来事にも、必ず原因があるのです。あらゆるものは、必然です。しかし、命が生まれるという結果の背景にある原因は、人が計らえるほど単純なものではありません。決して計らうことのできない無数の原因が、果てしなく幾重にも積み重なり、一つの命は、はじめて誕生するのです。それは、人の命だけではありません。動物も草花も虫の命も、一つ一つの命の誕生の背景には、何人も計らうことの出来ない無数の原因が果てしなく積み重なっているのです。それ故に、一つとして、同じ命は生まれないのです。果てしなく積み重なっていく無数の原因の一つ一つが、全く同じく重なることはあり得ないからです。一人ひとり、一つ一つの命の背景に関わっているものは、みんな違いながら、それぞれに非常に重いのです。それだけ、どんな命も、他とは比べることの出来ない掛け替えのない重みを背負って生まれてきているということです。死とは、その掛け替えのない命を、それぞれが、力の限り生き抜いた結果です。

その死を迎えた人を前にして、残された者が、どんな態度を取るのかは、人に課せられた大きな問題だと思います。最近は、都会を中心に、葬儀を勤めず、直接火葬する直葬が増えてきたといいます。この問題を、仏教寺院存続の危機として語られることも多いですが、本当の問題は、そんなところにあるのではありません。葬儀を省略する、今生のお別れをきちんとしない、という態度は、考えてみると非常に恐ろしいことだからです。単に死んだから燃やしてしまうという態度は、役に立たなくなったものをゴミ袋に入れて捨ててしまう態度と根本的には同じです。そこには、計らうことの出来ない無数の原因によって結ばれた掛け替えのなさに対する敬意も、その掛け替えのない命が、力の限り生き抜かれたことの尊さに頭が下がる感動も、人が本来持つべき感受性が、全く欠落しています。人としての感受性が欠落した存在を、仏教では、鬼というのです。鬼が増え続ける世界は、地獄に他なりません。地獄の存在を平気で否定する人々が、地獄の世界を現実に作り出していくのです。

葬儀を勤めず火葬にせざるを得ない、そんな状況に心を痛めていく、この感受性を人は失ってはいけないと思います。未曾有のコロナ禍の中で、改めて、様々な場面で人としての在り方が問われています。仏法を聞かせていただく中に、人としての在り方を見つめさせていただきましょう。

2020年6月29日