三月末、卒園していく保育園の年長組の子ども達一人一人とお話をさせていただいた時のことです。保育園で一番楽しかったことや、小学校に入学したら楽しみにしていることなど、様々なお話を一人一人とさせていただきました。保育園で一番楽しかったことについては、運動会や発表会、お泊まり保育や、外で友達と鬼ごっこをしたことなど、子ども時代にしか経験することができない素敵な思い出を、それぞれが、キラキラした笑顔で話してくれました。
その中で、一歳の時から保育園に来てくれていた、とても活発で元気な男の子の答えが、とても印象的でした。その子は、とてもキラキラした笑顔で「お勤め!」と答えてくれたのです。「え?お勤めって、朝のお勤め?」と聞き返すと、「うん!お勤めが、僕、一番好き!楽しい!」と、改めてニコニコしながら答えてくれました。
「お勤め」というのは、阿弥陀如来様に礼拝をし、読経をすることです。保育園では、ご本山で制定されている「幼児のおつとめ」という簡単な音楽礼拝から始まり、夏頃には、七高僧の第一祖に数えられる龍樹菩薩が制作された十二礼の和訳「らいはいのうた」、そして、秋頃からは、親鸞聖人が制作された「正信念仏偈」を三歳~五歳までの子ども達が、毎朝、お勤めしています。「正信念仏偈」になると、十五分~二十分ぐらいの時間がかかります。その間、子ども達は、正座をし、姿勢を正して、声に出してお勤めをするのです。その後、園長である住職から五分程度のお話があります。外で走り回ることが大好きな活発な男の子にとって、朝のお勤めの時間は、苦痛であっても不思議ではありません。しかし、その男の子は、楽しい!と言ってくれたのです。
この男の子の笑顔を見て、改めて、仏教における楽しさについて、考えさせられたことでした。仏教というと、本来、楽しさとは、かけ離れた印象を持っている人が多いと思います。欲望を満たすことを否定し、煩悩をコントロールしていくことを教えるのが仏教だからです。読経する時も、欲望のままに行動することは許されません。どれだけ、外で遊びたいと思っても、その思いをコントロールし、ジッと座っていなければならないのです。楽しいはずがないと、多くの人が思うのは当然です。
しかし、お経の中には、たくさん「楽」という字が使われています。親鸞聖人が真実の経として拠り所とされている『仏説無量寿経』の中にも、信心のことを「信楽」と表現されたり、お浄土のことを「安楽国」と表現されたりしています。「楽しみ」というのは、仏教において、とても大切な言葉として扱われているのです。
しかし、お経の中で説かれていく楽しみと、私達が求めている楽しみは、その中身に大きな違いがあります。親鸞聖人が尊敬された七高僧の第三祖に数えられる曇鸞大師の『往生論註』というお書物の中に、次ようなお言葉が示されています。
「大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して遊戯し、神通もつて教化地に至る。」
あらゆる命が抱える苦悩を大慈悲をもって受け止め、悲しみや苦しみが渦巻く煩悩の林の中に飛び込んでいくことを、「遊戯」という言葉をもって表現されています。人の悲しみや苦しみを背負っていくことは、決して楽しいことではありません。人の苦悩を背負うことは、自分の苦悩以上に重いものです。それを、遊戯と表現し、楽しみとして捉えていくのが、仏様の世界なのです。仏様における楽しみは、自らの欲を満足させることではなく、あらゆる命の悲しみを共に悲しみ、あらゆる命の幸せを実現していくところにあるのです。本当に楽しいことは、小さな悲しみも見捨てることなく、あらゆる命の幸せを願っていくところに実現していくということなのでしょう。
お浄土への歩みというのは、そんな本当の楽しみに向かった歩みです。阿弥陀如来様に礼拝することも、読経することも、お寺にお参りすることも、仏様に関わることの中には、本当の楽しみが満たされているのです。本当の楽しみに出遇った人は、本当の輝きを放っています。仏教というのは、教えに生かされ、本当の楽しみを味わう人によって、脈々と伝わってきたところが大きいのです。
人生において、楽しみを求めずに生きる人はいないでしょう。しかし、求める楽しみが、その人自身を虚しくさせたり、破滅させたりするのであれば、それは、本当の楽しみではないでしょう。娑婆世界に生きる私達が求めていく楽しみは、そんな偽りの楽しみであることが多いのです。
人生における本物の楽しみを求めて、仏法を聞き始めるのも、大きなご縁です。仏様を中心に、本物の楽しみを味わえる日々を大切にさせていただきましょう。
【住職の日記】