「仏様のみ教えを聞く」

【住職の日記】

先日、『基礎からはじめる真宗講座』で『仏説阿弥陀経』のお話をさせていただきました。『仏説阿弥陀経』では、阿弥陀如来の極楽浄土について、様々な風景が詳しく説かれていきます。その中の一つに、池の中に咲く蓮の花についての描写があります。それは、次のように説かれていきます。

「池のなかの蓮華は、大きさ車輪のごとし。青色には青光、黄色には黄光、赤色には赤光、白色には白光ありて、微妙香潔なり。」

様々な色の蓮の花が、それぞれの色の光を放っているという風景が描かれています。これは、単に美しい風景が描かれているのではありません。仏様のお心がみそなわす本物の命の風景が描かれているのです。

この点について、先日の真宗講座では、保育園で出会ったある男の子のつぶやきを紹介させていただきました。以前、保育園に虫が大好きな男の子がいました。虫図鑑を見るのが大好きで、虫の事なら何でも知っている虫博士です。夏の季節、保育園にあるクヌギの木にカブトムシがとまっていました。子ども達は、大喜びです。虫かごに入れて、毎日、大切にお世話をし、カブトムシの話題で持ちきりでした。虫博士の男の子も、もちろん大喜びでしたが、ある時、ぽつりとこんなことをつぶやいたのです。「ゴキブリも同じ色してるのに・・・」

この一言に、大人は、はっとさせられたことでした。確かに、ゴキブリとカブトムシは、同じ色をしています。しかし、どれだけの人が、この二匹の虫を、同じ色の虫として見ているでしょうか?虫なら、どんな虫も大好きな男の子は、ふと疑問に思ったのでしょう。カブトムシは、こんなに大切にされるのに、なぜ、同じ色をしているゴキブリは殺されなければならないのかと。

これは、人間境涯の前に広がる当たり前の風景に疑問を持ったということです。子どもというのは、時折、大人がはっとさせられることを口にすることがあります。それだけ、心が柔らかく感受性が豊かなのでしょう。アンテナが錆び付いておらず、ピカピカなのです。それがなぜか大人になると、心が固く感受性が乏しくなっていきます。アンテナが錆び付き、正しい風景を感受出来なくなっていきます。それは、人間境涯が、自己都合の奪い合いの世界だからでしょう。人間にとって都合の良いカブトムシが殺されることは、悪と見なされていきます。逆に、同じ虫でも、人間にとって都合の悪いゴキブリが殺されることは、善と見なされるのです。しかし、それは、人間の都合が描き出していく歪んだ風景であり、本当の命の風景ではないのです。本当の命の風景は、ゴキブリも輝いているのです。ゴキブリは殺されてよい命ではなく、大切にされなければならない命なのです。ゴキブリをゴミを処分するように無慈悲にたたき殺し、それを当然のように何も感じない姿というのは、鬼の姿であり、けっして正しい姿とは言えないでしょう。

『仏説阿弥陀経』には、仏様であるお釈迦様が感受された美しい命の世界観が展開されていきます。そのお経の言葉をいただくことは、仏様の清らかな世界に触れることと同時に、私の世界の歪みが露わになることでもあるのです。

人が為す世界は、歪んでいます。その歪みが、苦しみや悲しみを生み出していくのです。人が為すと書いて偽という文字になりますが、人が為すものは、どこまでも偽物だということです。人には、それぞれに自己都合があります。個体をもっている限り、自己都合を捨てることはできません。自己都合のフィルターを通してしか、私達は、世界を見ることができません。それ故に、私達が感受している世界には、必ず都合の良いものと都合の悪いものが存在します。言い換えれば、世界には、大切なものとそうでないものが存在するということです。大切なものだけを大切にし、邪魔者を排除していく世界は歪んでいます。

その歪みを歪みとして認識していけるのは、歪んでいない正常なものに出会った者だけです。歪みのない正常なものに出会うことがない者は、自分が歪んでいることに気づくことはありません。歪んだまんま、それが正しいと思い込み、歪みを増長して命終えていけば、歪んだ世界に落ち込んでいくのは明白な道理でしょう。

浄土として説き明かされていく仏様がみそなわす歪みのない世界は、あらゆるものが愛しいものとして存在する風景が広がっています。あらゆるものが美しいのです。

仏様のみ教えを聞くというのは、正しい世界に触れ、感動し、感動の中に自らの浅ましい姿に気づき、軌道修正しながら浄土に向かった人生を歩ませていただくということです。たまたま恵まれた人生です。正しいことに出遇わせていただきましょう。

2023年2月28日