【住職の日記】
先日、ある御門徒宅でのご法事でのことでした。お勤めをさせていただき、その後、いつものように御法話をお話させていただきました。御法話を話終えた時、お参りされていたご親戚の男性の方が、拍手をされました。隣に座っておられた奥様が、すかさず拍手をするご主人の手を押さえられ、小声で「やめてください」と拍手を止められたのです。それに対して、ご主人は、「よかったんやから、ええやないか」と納得できないご様子でした。
御法話を聞かせていただく作法としては、拍手しないのが正解です。その理由は、大きく二つあるように思います。
一つは、御法話というのは、お取り次ぎだからです。「お取り次ぎ」というのは、仏様のお話を取り次いでいるという意味です。講演会で聞くお話は、講師の経験を元にした、講師が知る世界が披露されます。有名な講師ほど、他の人が経験し得ない貴重な経験をされ、他の人が知り得ない世界を知っておられるということでしょう。その講師からお話を聞かせていただき、感動をいただいた場合、その講師を讃える意味で、大きな拍手が送られるのです。
しかし、僧侶がお話する御法話は、僧侶自身の経験を元にして、僧侶が知り得る世界を披露しているのではないのです。御法話というのは、仏様が経験されたお悟りの世界を、経典から僧侶が聞かせていただき、それを、僧侶が取り次いでいるだけなのです。もちろん、経典の言葉を、そのままお伝えするだけでは、伝わらないことが多いでしょう。そこに、僧侶が日常生活の中で経験した例え話を交えたりする法話のテクニックが入ります。しかし、御法話は、例え話が中心ではありません。例え話だけを聞いていたのでは、結局人の経験を聞いているだけに過ぎません。御法話は、仏様が経験された世界を聞かせていただくところに、大切な意味があるのです。どんなに上手な例え話であっても、例え話をする僧侶を讃えるということがあってはなりません。私達が、本来、讃えなければならないのは、僧侶ではなく仏様なのです。
二つには、その仏様を讃えるということ自体、実は、人には出来ないということです。讃えるというのは、とても難しいことなのです。例えば、日本には、叙勲制度があります。様々な分野で国家に貢献された方に対して、その人の功績に応じた勲章が授与されます。勲章が授与された方を讃えることを考えてみたいと思います。もし、勲二等にあたる勲章を受賞された方に「勲一等の受賞、おめでとうございます」と讃えたとしたら、これは、讃えたことになりません。讃えるどころか、嫌みになります。逆に「勲三等の受賞、おめでとうございます」と讃えても、本人を貶すことになります。讃えるというのは、その人の本質、その人の素晴らしさや輝きを正確に受け止め、その功績にふさわしい言葉で讃えなければ、本当に讃えることはできないのです。
仏様を讃えることができないというのは、私達には、仏様の本当の素晴らしさや輝きは正確には分からないからです。仏様を讃えることが出来るのは、仏様だけです。『仏説阿弥陀経』の中には、十方の様々な諸仏方が、阿弥陀如来を讃えておられる様子が説かれていきます。仏様同士でしか成しえない行為が、仏様を讃えるという行為なのでしょう。
しかし、阿弥陀如来を讃える言葉が、お釈迦様によって経典の中に示されているのです。その言葉が、「南無阿弥陀仏」です。親鸞聖人は、『尊号真像銘文』というお書物の中で「南無阿弥陀仏をとなふるは、仏をほめたてまつるになるとなり」と仰っておられます。私が、「南無阿弥陀仏」と称えたら、阿弥陀様をほめたことになるというのです。私には、仏様、阿弥陀様をほめる言葉を紡ぎ出していくことはできません。しかし、お釈迦様から阿弥陀様をほめることになる言葉を与えてもらっているというのです。
拍手は、仏様を讃える行為ではなく、人である僧侶を讃える行為です。また、煩悩に振り回されていく凡夫である私達には、仏様を讃えること自体が難しいのです。しかし、「南無阿弥陀仏」の一言は、仏様自身が紡ぎ出した仏様を讃える言葉です。この六字の言葉の中には、無量の徳が込められています。一言称える中に、仏様の様々な働きが、私の命の上に満ちてくださるのです。
御法話は、僧侶が取り次ぐ仏様のお話です。仏様のお心に感動し、拍手ではなく、仏様を讃えるお念仏を申すことを心がけましょう。