「信心の智慧」

新型コロナウイルスの感染拡大の影響が続いています。病の苦しみは、仏教では、人間の根本苦である四苦の一つとして示されています。

四苦とは、生まれること、老いること、病に罹ること、死んでいくことの四つの苦しみを言います。シャカ族の王子であったお釈迦様が、出家をし修行者になっていかれたのは、この苦しみの原因を突き止め、克服するためでした。自分自身が、この四つの現実を、苦しみとして受け止めていく根本原因はどこにあるのか、それが、お釈迦様の出発点なのです。今から約2500年前の12月8日、35歳のお釈迦様は、菩提樹の下でお悟りを開かれました。それは、苦しみの根本原因を突き止め、苦しみを克服し、真の自由を獲得したことを意味していました。生老病死の現実に苦しむことのない安らかで自由な境地を知る人として、人々は、お釈迦様のことを仏陀と呼ぶようになります。仏陀(ブッダ)というのは、サンスクリット語で目覚めた者という意味です。この仏陀が、仏様という言葉の語源です。仏様とは、苦しみを克服した真実に目覚めた存在のことをいい、仏教とは、苦しみを克服する目覚めの道が説かれたものなのです。

親鸞聖人が、二十年間、比叡山で厳しい仏道修行の日々を過ごされたことも、その後、法然聖人に出遇われ、比叡山を下り、在俗の中でお念仏の道を歩まれたのも、それは、苦しみを克服する目覚めの道を歩まれたことに他なりません。親鸞聖人によって、在俗に生きる私達にも、生老病死の苦しみを克服する道が恵まれていることを、今一度、大切に味わっていきたいものです。

以前、ある御門徒の方から次のようなお話を聞かせて頂いたことがあります。

「私が仏法を聞かせていただくようになったのは、母の姿があったからです。私の母は、お念仏中心の人生を生きた人でした。母が亡くなる少し前、亡き父の年回忌の法事が自宅で勤まりました。法事が終わって、前住職が帰られるとき、母が前住職に語った言葉が今でも忘れられません。母は前住職にこう言いました。『ご院家さん、これがお会いできる最後かも分りません。もう長くないことは、自分が一番よく分っています。ご院家さん、お浄土で必ずあなたをお待ちしておりますが、ご院家さんは、できるだけゆっくりおいでくださいね。』本当に、その時が、母にとって前住職と言葉を交わした最後の日になりました。『できるだけゆっくりおいでください』と柔らかい眼差しで語っていた母の姿が、今でも忘れられません。」

このお話からは、出家をした修行者ではなく、在俗の中で生きる純粋な念仏者が、人間の根本苦を克服している有り難い姿を味わうことができるかと思います。

仏教では、生老病死は、苦しみという現実ではありますが、苦しみを生み出す原因とは見ていません。生老病死は、単に生老病死という現実でしかありません。それを苦しみとして描き出すのは、他ならない私自身の感受性なのです。「人生は苦である」とお釈迦様がお示しされたのは、人というのは、共通して生老病死を苦しみとして受け止める貧しい感受性を持っている存在であることを示されたのです。

人生には、浮き沈みがあるものだとよく言います。今は辛くても、必ずよくなる時は来ると。しかし、必ず最後には老病死が待っています。老いは、二度と若さに向かうことはありません。治ることのない病も待っています。そして、死が訪れれば、よくなる時は、もう来ることはありません。そんなことは当たり前、しょうがないと勝手にけりをつけて、自分の人生に向き合おうとしないことは、恵まれた掛け替えのない人生に対する冒涜ではないでしょうか。命がけで仏法を相続してこられた人々の想いは、そこにあるのだと思います。

死んでいくことは、お浄土に生まれていくという尊い意味があり、この世もまた「ゆっくりおいでください」と言い切れるような有り難い世界なのです。親鸞聖人は、「信心の智慧」というお言葉を、よく使われています。それは、仏様の真心を素直に受け入れていく信心というのは、仏様の物の受け止め方、人にはない仏様の感受性を頂いていくことに他ならないからです。私達念仏者は、お念仏申す中に、一般の人には感受することが出来ない、素晴らしい世界を感受できる智慧を頂いていくのです。

新型コロナウイルスという新しい疫病が、人々を不安に貶めている苦難の時代を迎えています。共々に、今一度、仏法を聞かせて頂くことの大切な意味に向き合っていきましょう。

2020年6月3日