「心から尊敬する」

先日、ある御門徒のご法事の折、次のようなご質問をいただきました。

 「以前、どこかで聞いたことがあるんですが、親鸞聖人は、『自分は、親の供養をしたことがない、それよりも万物に祈りなさい』というようなことを説かれたそうですが、本当なのですか?」

 この方が、以前、どこかで聞かれたという親鸞聖人のお言葉は、おそらく『歎異抄』の次のお言葉だと思います。

「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。そのゆゑは、一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。」

仏教における教えの言葉が、正確に伝わるというのは、大変難しいことです。お経の言葉や親鸞聖人の言葉は、大変難しいですが、難しくてよいのです。分りやすいというのは、それだけ人間の価値観に近く、危うい思想である可能性が高いと思います。結局のところ、人間に人間を救う力はありません。分りにくいけれども、何か惹かれるものを感じる、そんな言葉の中にこそ、人間のはからいを超えた仏様の悟りの内容が込められているのです。

この『歎異抄』の親鸞聖人のお言葉も、大変分かりにくいものです。それは、私達の常識に当てはまらないからです。亡き父母の供養のために念仏を申したことは、一度としてないと言い切られます。しかし、私達の常識は、念仏やお経は、亡き方の供養のために唱えるものというものです。

そもそも、供養という言葉自体、私達の常識では理解できない意味が込められています。私達の常識では、供養というのは、亡くなった方を助け救っていくという意味を持っています。しかし、供養とは、もともとインドの「プージャナー」という言葉を中国語に翻訳したものです。プージャナーを直接日本語に翻訳すると、「心から尊敬する」「敬う」という意味になります。つまり、供養とは、心からの尊敬を捧げることをいうのです。仏様や仏弟子といった心から尊敬する対象に対して、食事やお花やお香など、尊敬の想いを形に表して捧げていくことを、本来、仏教では供養というのです。亡くなった方を助け救うという意味は、本来、込められていないのです。本来、込められていない内容を、自分勝手な解釈で、世間的な常識にして、分ったつもりになっているのが、私達の危うさです。教えの言葉というのは、どこまでも頭を下げ聞かせていただくものです。自分の価値観に合うように、自分が理解しやすいように、勝手に解釈していいものではありません。迷信というのは、こういった人間の勝手な思い込みから生まれる、誤った宗教的理解であることがほとんどなのです。

念仏は、亡き父母の供養のために唱えるものではない、という親鸞聖人のお言葉は、人の常識ではなく、仏様のお言葉を素直にいただく中から生まれたものです。仏様の言葉を素直に聞かず、人の常識に囚われ、亡き方を助けるために念仏している人々に対して、親鸞聖人は、非常識な言葉をもって、それを破ろうとされます。「そのゆゑは、」に続くお言葉が、それです。本来、本当の愛情とは、自分に関係のあるものだけでなく、あらゆる命に及んでいくものでなければなりません。そして、その本物の愛情が持てるのは、あらゆる人々から敬われる仏様だけなのです。そもそも、今、目の前にいるものさえも救えないような人間が、どこでどうしているのか分らないような亡き方を救うことなど、できるわけがないのです。念仏を唱えて、亡き方を救ったような気になっているのも、人間の危うい思い込みにすぎません。

しかし、亡き父母のことを想わなくても良いとは言われません。亡き父母を救うことができるのは、今の私ではないと言われるのです。今は、大切な父母さえも幸せにできない愚かな身ですが、父母含め、あらゆる命の上に本当の安らぎをもたらし、あらゆる命を心から愛することのできる尊い仏様と成ることが、阿弥陀如来によって約束されているのです。私は、愚かなまま死んで終わっていくことが願われているような虚しい存在ではありません。万物を救っていく仏様に成ることが、一心に願われてある大切な存在なのです。

親鸞聖人のお言葉は、虚構ともいうべき偽物の安心の中で生きることの危うさを教えてくれています。お念仏は、愚かな私が使う道具ではありません。本物の安心をもたらす敬うべき仏様からの贈り物です。お念仏を申す中に、虚構が破られ、真実の世界に眼が開かれていくのです。共々に、素直に聞かせていただく毎日を、大切にいたしましょう。

2020年8月1日