今年も、残すところ三ヶ月となりました。ここのところ、どこの御門徒宅にお参りさせていただいても、共通した話題ばかりが上がります。それは、コロナと水害と農作物の不作です。今年の三月頃から始まったコロナウイルス感染症の流行は、未だに終息の目途が立っていません。また、毎年のように起こる豪雨や台風による大規模な水害が、今年も、日本各地を襲いました。それに加え、今年は、葉物等の野菜が収穫できず、お米も害虫や塩害による被害が凄まじいといいます。江戸時代までの日本なら、疫病、自然災害、飢饉という三重苦により、何百万人の死者が町に溢れかえる乱世となっていたことでしょう。
親鸞聖人が八十八歳の時、乗信房というお弟子に宛てられたお手紙には、次のようなお言葉が記されてあります。
「なによりも、去年・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候ふらんことこそ、あはれに候へ。ただし生死無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。」
去年から今年にかけて、老人も若者も男性も女性も多くの人々が死んでいったことは、悲しいことだと言われています。このお手紙には、親鸞聖人の直筆で文応元年十一月十三日という日付が記されています。この文応元年および前年の正元元年は、後に「正嘉の飢饉」と呼ばれる歴史的な大飢饉が起こった年でした。死者は、全国で溢れかえったといいます。『百練抄』という当時の歴史書には、正嘉の飢饉について、飢餓に耐えかねた京都壬生の少女が、死体を食べたことが記されています。また、この年に書かれた日蓮宗の開祖、日蓮聖人の『立正安国論』にも「天変・地夭・飢饉・疫病あまねく天下に満ちて、広く地上にはびこる。牛馬ちまたにたおれ、骸骨路に充てり。死をまねくやからすでに大半を超える」と記されています。飢饉が起こった原因は、冷害と台風による凶作です。これに疫病の流行が加わり、町中に死者が溢れかえったのです。まさに、時代が時代なら、令和二年も、歴史に刻まれるような凄まじい惨状が、日本中に広がっていたかも知れません。
世が乱れる乱世という言葉は、天変地異のような環境が乱れるだけでなく、人の心も乱れることを意味しています。人々の心が乱れ荒んでいく、そのような状況を生み出していく世の中を乱世というのです。その意味では、鎌倉時代ほどの地獄絵図でないにしても、まさしく令和二年も乱世と呼ばれるに相応しいかもしれません。コロナウイルス感染症の流行による人々の心の乱れは、誰もが認めるところでしょう。
ここで親鸞聖人のお手紙のお言葉を、もう一度よく味わってみますと、飢饉の惨状に触れたのに続いて、「生きている者が死んでいくという現実は、すでに仏様が説かれていることであるから、驚くべきことではありません」と述べられています。「おどろきおぼしめすべからず候ふ」という一言は、地獄のような乱世の中にあったとしても、心まで乱れる必要はないことが教えられています。
疫病、自然災害、飢饉、どれもが、人の願いを無残に踏みにじっていきます。願いを踏みにじられた人の心は、苦しみ、怒り、悲しみ、妬み、様々に乱れていきます。しかし、親鸞聖人が教えてくださるように、願いが無残に踏みにじられていくのは、何も特別なことではないのです。疫病、自然災害、飢饉という状況に関わらず、人間は、若くありたいという願いを踏みにじられ、健康でありたいという願いを踏みにじられ、死にたくないという願いを踏みにじられて、思いのままにならない人生に振り回されていくのです。人の願いに関わらず、本来、現実は厳しいのです。この厳しい現実の中に、どんな意味を味わっていくのかが大切なことです。事実を変えることはできません。しかし、意味を変えることはできるのです。仏様の教えの言葉というのは、私達に、思いのままにならない現実に、新しい意味を与えてくださるのです。
今年、私を取り巻く厳しい現実に、仏様は、どんな意味を与えてくれるでしょうか。それは、一人ひとりが、仏様に向き合い聞いていく他に道はありません。老い病み死んでいく私を、私自身は見捨てようとしますが、阿弥陀如来様だけは、見捨てられないのです。それは、仏様から見て、とても見捨てることのできない大切な意味が、私そのものの上にはあるからなのです。
引き続き、大変困難な状況が続いていく世の中ですが、心乱れそうになる中にも、お念仏申し、仏様の温かい眼差しの中で、自らを決して見失うことのない毎日を大切にさせていただきましょう。