【住職の日記】
先日、お寺に一本の電話がありました。それは、次のようなご相談の電話でした。
「突然、お電話して申し訳ございません。私は、老人施設に入っている者です。もうあまり長くは生きることができないと思っています。いよいよ、自分の死が現実のものになってきて、自分の生き方や死の受け止め方について、色々と悩むようになりました。私の実家は、浄土真宗ですが、お恥ずかしながら、教えを聞く機会がないまま、こんな歳になってしまいました。何か自分が安心できるものが欲しくて、インターネットで死生観について検索してみましたが、ほとんどがキリスト教のものばかりが出てきます。キリスト教の死生観についても、一通り、色々と読みましたが、何かしっくりきません。やっぱり、自分には実家の浄土真宗が合うのかと思い、『歎異抄』を一通り、読ませていただきました。浄土真宗の死生観について、インターネットで検索していると、正法寺様のホームページが目にとまりました。電話番号が書かれてあったので、思い切って電話してみました。死が浄土に生まれるご縁であることは分かるのですが、死を迎えるまで、何をして生きるのが正しいことなのですか?私は、残りの人生、何をすればよいのでしょうか?」
人は、自分自身の死と向き合ったとき、初めて、自身が抱える命の問題に出会うのかもしれません。多くの命がある中で、自分が死んでいくことを知っているのは、人だけだと言います。死んでいく自分は、何のために生まれてきたのか、死んでいく人生にどんな意味があるのか、答えようのない根本的な命の問題と向き合うのが、人らしさであり、人だけが持つ宗教の営みが、ここにあります。
宗教という言葉は、現代では、あまりに多くの意味を含んでいます。いわゆる世間の常識から逸脱している価値観を教えるものは、すべて宗教という言葉でくくられます。それが、本当に人の人生を正しい方向に導くものかどうかは、問われることはありません。信じるか信じないかは、個人の自由なのです。自由であるというのは、とても大切なことですが、それは、個人個人に大きな責任が課せられているということでもあります。選んだ宗教によって、人生が破壊されるようなことがあっても、誰も責任をとってくれません。それもまた個人の責任です。
それでは、人生を正しい方向に導く宗教と人生を破壊していく宗教との違いは、どこにあるのでしょうか?正しいというのは、安定している状態のことをいいます。不安定な状態は、正されなければならない状態であり、正しい状態とは言えません。生と死に関して言えば、生も死もどちらも有り難いものとして受け止めていれば安定しています。そこに不安はありません。しかし、生だけが有り難く、死は無意味で悲惨なものと受け止めているならば、それは、不安を抱えた状態です。生を支えるものだけを求めさせるものは、人生を破壊していきます。なぜなら、死のない生はあり得ないからです。生も死も有り難いと言える世界が開かれてこそ、本当の意味で、人は安定した状態に導かれていくのです。
浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、お念仏を申す人生を歩むことが、正しい方向に導かれていくことだと教えてくださいました。また、そのことが本当であることを、ご自身の九十年のご生涯を通じて証明してくださいました。親鸞聖人に、人生において、私は何をすべきかと問えば、お念仏を申すことだと仰るでしょう。
お念仏とは、阿弥陀如来が言葉になって、私に寄り添っている姿です。寄り添うというのは、人生の様々な場面を通して、私を呼び覚まし続けるということです。仏様の安定した悟りの世界が、不安定な私を、正しき方向へと呼び覚ましていくのです。悲しいことがあれば、悲しみの中に響くお念仏の声は、悲しみの中にも合掌していける意味があることに気づかせてくださいます。嬉しいことがあれば、喜びの中に響くお念仏の声は、欲を満足させるのではなく、感謝の念をもたらせてくださいます。私達は、モーターボートのように身軽ではありません。積年の罪と障りをいっぱいに乗せた石油タンカーのようなものです。お念仏の人生は、ゆっくりゆっくりと、私を、方向転換させてくださるのです。
自分の生と死にまじめに向き合い、お念仏を申す中に、安定した正しき方向へと歩む日々を大切にさせていただきましょう。