【住職の日記】
先日、保育園関係の研修会で、自己肯定感についてのお話を聞かせていただきました。日本人は、世界の中で相対的に自己肯定感が低いそうです。自己肯定感とは、自分の存在をありのままに認め、その自分を好意的、肯定的に受け止めることができる感覚を言います。二〇一六年に、日本の小学四年生~高校三年生の子どもを対象として自己肯定感の有無を調査したところ、五割を超える子どもが、自分のことが嫌いと答えたそうです。日本人の低い自己肯定感の背景には、敗戦の歴史や遺伝子的な問題等、様々に考えられるそうですが、自己肯定感は、その人の心がけで、いつからでも高めていけることができると言います。また、自己肯定感が高い人は、自分を尊重するように、同じように相手のことも尊重できるのだそうです。自分を認め、人を認められる姿が、自己肯定感の高い人の姿だそうです。
お話を聞かせていただいて、疑問に思うことがありました。本当の自己肯定感というのは、仏教を抜きにしては語れないのではないかということです。人は、必ず年老い、病に罹り、死んでいかなければなりません。老いていく私、病に苦しんでいく私、死んでいく私、これが、ありのままの隠しようのない本当の私です。年老い、病に罹り、死んでいく私を、ありのままに認め、好意的、肯定的に受け止めることが、心がけ一つで出来ていくでしょうか。これが、人の心がけ一つで出来ていくならば、お釈迦様のご苦労も、親鸞聖人のご苦労もなかったことでしょう。
仏教というのは、本当の自己肯定感、本当の自分を取り戻す道だということができます。お釈迦様は、お城に住む王子様であった時、老いて病んで死んでいく自分自身の姿について、深く苦悩したことが伝えられています。それは、本当の自分をありのままに認めることが出来ない苦しみです。人生における苦しいことや嫌なことは、逃げることが出来たり、時間が経過し状況が変化すれば解決することがほとんどです。しかし、自分からだけは逃げることができません。また、老い、病み、死んでいくという自分が抱える状況は、けっして変わることはありません。親鸞聖人も、生死出づべき道に苦悩し、比叡山での修行に行き詰まり、法然聖人のもとに救いを求めに行かれたことが、奥様の恵信尼様のお手紙に記されています。「生死出づべき道」というのも、若き日のお釈迦様が苦悩された本当の自分を認めることの出来ない状況からの脱却の道のことです。
私の人生は、何のためにあるのか、考えたことがあるでしょうか?楽しむことが、人生の目的になっていないでしょうか。お釈迦様は「人生は苦である」というお言葉を遺されています。これは、人生は、楽しむためにあるのではないということを示されたお言葉です。人生の目的は、楽しむことではありません。人生は、本当の自分を取り戻し、真実に目覚めていくためにあるのです。
親鸞聖人が歩まれたお念仏の人生も、楽しむためではありません。生老病死を抱えるありのままの自分を、ありがたいものとして味わい、真実に目覚めていくための人生が、お念仏の人生です。お念仏の人生とは、どこまでもお念仏が中心です。仕事をしながらお念仏を申すのではありません。食事をしながらお念仏を申すのではありません。お念仏を申しながら仕事をし、お念仏を申しながら食事をし、お念仏を申しながら日常生活を送るのです。お念仏とは、仏様そのものです。仏様は、お仏壇にだけいらっしゃるのではありません。お浄土でじっと私を待っておられるのでもありません。言葉となって、私のところにいらっしゃるのです。言葉の仏様は、人生を通じて、私を育ててくださいます。どんな時も、私を呼び覚まそうと響き続けてくださいます。自分で自分を見捨ててしまいそうになる絶望的なことがあっても、仏様だけは、けっして私を見捨てたりしません。お念仏の人生を歩む人は、仏様によって自己が肯定されていくのです。
親鸞聖人は、自らを「罪悪深重の凡夫」と呼ばれ、「愚禿釈親鸞」と名告っていかれました。「愚禿」というのは、どうしようもない愚か者という意味です。「釈」というのは、お釈迦様の一族として、正式な仏弟子として認められていることを表わしています。どうしようもない愚か者でありながら、仏様から見捨てられていない存在であることの表明が、「愚禿釈親鸞」という名告りでしょう。
年老い、病み、死が現実のものとして近づいてくる時も、けっして自己肯定感が失われていかない人生が、お念仏の人生です。大切にお念仏を申していきましょう。