「連続研修会」

今年は、コロナ禍が明け、寺院活動も通常の状態に戻りつつあります。正法寺が所属する浄土真宗本願寺派の山口南組(山口市と防府市台道の十四ヶ寺で構成)でも、コロナ禍で滞っていた活動を順次再開する方向で協議が進められています。その中で、今年、再開が決定したものに連続研修会があります。連続研修会は、二年にわたり、全十二回の研修を受けていただくものです。浄土真宗のみ教えに体系的に触れていただき、その後、受講者が、各寺院の法座活動に参画し、お念仏を喜ぶ人々のご縁の輪が広がっていくことを目的としています。

これまで、山口南組では八回にわたって連続研修会が開催されてきました。この度、十月より九回目の連続研修会が、実に八年ぶりにスタートします。再開されるにあたり、前回受講された方々の受講後のアンケートを見せていただきました。それぞれに、様々なご意見やご感想が書かれてあり、とても興味深く読ませていただきました。

その中で、次のようなご感想を書かれている方がおられました。

「如来様の前では、南無阿弥陀仏が称えられても、日常の暮らしの中では、自然に称えることができません。これからお聴聞を重ねていく中で、自然にお念仏が称えられるようになるのでしょうか?」

様々なご意見、ご感想がある中で、とても真摯に仏法と向き合ってくださっている姿に感動したことでした。

仏教には、本来、研修という言葉はありません。それは、仏様の世界は、勉強して、自分の知識にするものではないからです。仏教というのは、知識ではなく、自らの人生の上において、一人一人が味わっていくものです。それは、職人の世界と似ています。職人の世界も、研修を受けて知識を得たからといって、師匠と同じようにできるものではありません。師匠の教えを真面目に聞き、一生懸命経験を重ねていく中で、言葉では説明のできない感覚や技術が、その人の身となっていくのだと思います。仏法も同じです。仏教経典は、お釈迦様という仏様が経験された世界を、あえて言葉にしたものです。その言葉に触れることによって、仏様が経験された世界に触れることができますが、それは、覚えて理解することとは違います。自らの人生の悲しみや喜びの中で、繰り返し、仏様のお言葉を味わうことによって、だんだんと身についていくものなのです。

連続研修会は、その入り口にすぎません。研修会をご縁とし、仏様のお言葉に触れていくことが大切です。触れた言葉を、一生掛けて味わっていくのです。いただき味わっていく言葉が、その人の人生の上に、浄土の風景を少しずつ開いていくはずです。

仏教の言葉は、すぐに理解できるような簡単なものではありません。しかし、私に簡単に分かってしまうような言葉には、大した価値はないでしょう。この理解しがたい言葉が、国を超え、何千年もの時代を超えて、人々を導き、今もなお響き続けている事実に感動してほしいと思います。

教えを味わうということについて、住職が、仏教を学ぶ上において、大変お世話になった龍谷大学の浅井成海先生のお姿を思い出します。先生は、真宗学を専門とする一流の仏教学者でもあられましたが、単に仏教を研究の対象とするのではなく、ご自身の日々の生き方の上に、そのみ教えを大切に味わっておられました。いつも、授業が終わり、教室を出て行かれるときや御聖教を閉じられる時に、自然とお念仏を申される先生でした。その先生が、体調を崩されたとき、「なかなかお念仏が出ませんねぇ・・・」と、恥ずかしそうにおっしゃっておられたお姿が、二十年以上経った今でも、懐かしく思い出されます。「お念仏を申しなさい」と教えてくださる仏様のお言葉を聞いて、よく分からないと悩むのではなく、お念仏を申せない私が問題となるところに、仏教徒としての尊さがあります。

困難な時、人は、自分の都合ばかりが問題となり、それ以外のことに目が向かなくなります。病人が、わがままになるというのは、そのことを表わしています。わがままな自分が、わがままであることに気づかないまま終わっていくのか、それとも、わがままな自分の有り様を問題として、正しく生きようとするのか、ここに、人生の大きな分岐点があるのではないでしょうか?人生は、ただ自分の思い通りに生きさえすれば、幸せなのでしょうか?そうではないことを、お釈迦様は、教えてくださっています。

仏様が教えてくださるお言葉を拠り所に、自らの人生の意味とその方向性を大切に味わっていく毎日をいただいていきましょう。

【住職の日記】

 

2024年7月1日