先日、御法座の後、ある御門徒の方から次のようなお話を聞かせていただきました。
「私は、昔から、自分が人からどう思われているか、人の目を気にしながら過ごすことが多かったんです。でも、最近は、人の目よりも如来様の目を気にするようにお育ていただきました。前の御院家さんが、よく『なんでも如来様に相談しなさい』と仰っていましたが、その言葉の意味が、ようやく頷けるようになってきました。如来様が、どう見てくださっているのか、そのことばかり考えていると、私の口からお念仏が出てくださるのです。それがまた、ありがたくて・・・」
尊い念仏者のお姿に出遇わせていただいたことでした。親鸞聖人がその御生涯を通じてお示しくださった浄土真宗という仏道は、「六字の御名を称えつつ、日々の暮らしをお浄土への大切な道のりとして、一生懸命精進させていただく」というものです。
浄土真宗がよく誤解されるのは、世俗化した仏教のように思われることです。世俗というのは、煩悩が中心となって営まれる人間社会のことです。煩悩とは、貪欲・瞋恚・愚痴という言葉に代表されるように、自分の都合を貪り(貪欲)、自分の都合を邪魔する者に対して怒りを起こし(瞋恚)、物事の正しい本質を見失っていく(愚痴)、私達の心を煩わせ悩ます根源となるものです。得した、損した、可愛い、憎い、などなど、自分の都合に振り回されながら、自分も人も傷ついていくような在り方を世俗といいます。
それに対して、仏教は、煩悩を肯定するような生き方を戒めていきます。自分の望むものを手に入れるためのお金や自分のやりたいようにできる権力など、世俗の人なら誰もが望むものを捨て去って出家するのが、仏道を歩むスタートになります。比叡山や高野山などの出家僧の生活環境は、煩悩が暴走しないような環境が常に整えられています。
高野山で一年間、出家の日々を過ごされた真言宗の御住職は、「高野山で毎日精進料理ばかり口にしていますと、もうお寿司や焼き肉が食べたいという欲求がなくなってくるんですよ。」と仰っておられました。食欲がなくなるわけではありません。必要以上に食欲を貪るようなことがなくなっていくというのです。しかし、その御住職が、続いて次のようなことを仰っておられました。「でも、そんなのは高野山にいた一年間だけですよ。高野山から下りて、普通の生活に戻ったら、また、お寿司とか焼き肉とかが食べたくなりますよ。環境って大事ですよ。」
私達が抱えている煩悩の問題の根深さを教えられた気がいたしました。親鸞聖人は、出家の生活の中で、煩悩を抱える自分に絶望し、比叡山を下りなければなりませんでした。親鸞聖人も、比叡山の過酷な出家生活の中で、人並みには煩悩をコントロールできていたはずです。しかし、それは、所詮人並みなのです。完全な仏様と比べれば、やはり、仏様とは真逆の方向性をもった浅ましい私が浮き彫りになってくるのでしょう。自分をごまかすことの出来ない純粋で真面目な親鸞聖人だからこそ、ご自分に絶望されていかれたのです。
そんな親鸞聖人が出遇っていかれたお念仏の仏道は、むしろ煩悩が渦巻く世俗の中に、自分自身が肯定されていく道でした。仏様とは真逆の方向性をもった浅ましい私が、そのまま認められていく世界があったのです。そのままといっても、阿弥陀如来という仏様は、そのままの私を許すわけではありません。浅ましいそのままの私を悲しみ慈しむ中に、そのままにはしないで、悟りの命へと育ててくださるのです。
阿弥陀如来は、言葉の仏様です。南無阿弥陀仏の言葉になって、私の内面に立ち入り、私を絶えず揺り動かし、仏様とは真逆の方向性をもった私を、少しずつお浄土へと方向転換してくださいます。お念仏を申す人の人生は、常に仏様の眼に照らされた日々です。仏様の眼の中に、常に自分自身の姿が知らされ、仏様の働きによって、常に煩悩が暴走しないようコントロールされていくのです。人の視線よりも仏様の視線を感じながら、常に仏様とご一緒に日々を歩ませていただくのが、浄土真宗という仏道です。
浄土真宗は、けっして世俗化した仏教ではありません。共々に仏様の温かいお心に抱かれた丁寧な日々を大切にさせていただきましょう。
【住職の日記】