人は、本物に触れるとき、永い夢から目覚める

【住職の日記】

先日、ある御門徒の方から、念仏者であったお祖父様のお姿について、次のようなお話を聞かせて頂きました。

 「私の祖父は、本当に仏様中心の生活を送っていた人でした。家に帰ってきたときには、玄関でまずお仏壇の方に向かい手を合わせていました。家の廊下を歩いている時でも、お仏壇の脇を通るときには、必ずお仏壇の方に向かい手を合わせていました。外で仕事をするときも、度々、手を止めては手を合わせていました。私が、今、手を合わす身にさせていただいているのも、幼少期に心に焼き付いた祖父の姿があるからだと思います。」

本来、仏教徒というのは、仏様を最も価値あるものと認め、仏様を仰ぎながら日暮らしを送る人々のことをいいます。何に最高の価値を認めていくかによって、宗教の姿は変わっていきます。仏教徒といいながら、仏教徒の姿とはほど遠い姿の人々が多いのも現実です。しかし、これは、仏教徒に限ったことではないようです。先日、三八年ぶりにローマカトリック教会のフランシスコ教皇が来日されました。イエス・キリストの教えに裏打ちされた、その穏やかな言葉と振る舞いに、感銘を受けた方々も多いのではないでしょうか。しかし、世界人口の二割の人々が信者だとされるカトリック教会においても、キリスト教徒の本来の姿が崩れつつあることが、大きな問題になっているといいます。

本来の宗教性が、世界から消失していく現実は、世界が大きな病に罹っているようなものかもしれません。そもそも、本当の宗教性とは何かが、非常に分りにくくなっています。先日、あるテレビ番組で、宗教学者の先生が、宗教が世界の中で力を失っている理由を、スマートホンなどを媒体としたインターネットの普及にあると解説していました。つまり、現代は、人が孤独や不安を抱えても、ソーシャルネットワークで様々な人々と繋がることで孤独が解消され、インターネットで様々な情報を簡単に手に入れることで、不安を解消できる社会だというのです。その先生は、スマートホンが、宗教の代わりを果たすようになっていると説明しておられました。しかし、スマートホンで代わりが果たせるようなものは、本当の宗教ではないと思います。

正法寺にも何度か御講師として来られ、昨年一月に八十八歳で御往生された大阪大学名誉教授の大峯顕先生は、「人生いかに生き、いかに死ぬべきか」という問題に答えないのは本当の宗教とはいえないとおっしゃっています。「生きるも死ぬも宗教の教えによって一貫しております」と言える人が、本当の宗教をもっている人だといいます。多くの人は、病気のときや商売で困っているときは、神様や仏様にお願いはするけれども、それが元に戻れば、もう神様も仏様もいらない、という宗教の態度をもっているのではないでしょうか。それは、結局のところ、人間の願望や力を信じているだけです。自分の願望や力が満たされることが、人生の最高の幸せだと認めているのです。しかし、人生において、その最高の幸せは、必ず老・病・死によって無残に奪われていかなければなりません。無残に奪われていく中には、真の平和はありません。スマートホンを駆使することによって、老いることに平和でいられるでしょうか。インターネットの情報を駆使することによって、死ぬことに平和でいられるでしょうか。死んでいくときは、ソーシャルネットワークも、その孤独を癒やすことはできないでしょう。何が人間の本当の幸せであるのかは、人間には分らないことです。何も分らないまま生まれてきたのです。何も分らないまま死んでいくのでしょう。

人の欲望は、決して人を幸せにはしません。人の願いを叶えようと近づいてくるものは、仏様ではなく悪魔です。仏典の中でも、悪魔は優しい顔をしています。多くは、その悪魔にそそのかされ、本当の幸せを見失っていくのです。

しかし、この世界は、悪魔だけがいるのではありません。人生において大切にすべきことが何であるのかを、様々な姿で、私に教えてくださる仏様の化身のような働きがあります。仏様に手を合わせ、思いのままにならない厳しい人生を、平和に生き抜いた多くの尊い念仏者の方々も、そのお一人でしょう。

お釈迦様は、悟りを開かれたとき、目が覚めたと表現されました。人の願望や力を信じている人は、夢の中にいるようなものなのでしょう。人は、本物に触れるとき、永い夢から目覚めるのです。本物を遺してくださった多くの先人の方々に感謝しながら、大切に手を合わせる毎日を過ごさせていただきましょう。

(令和元年12月1日)

2019年12月1日