【住職の日記】
先日、御門徒のご法事の折、次のようなお話を聞かせていただきました。
「昨年亡くなった私の母は、本当によくお寺様にお参りさせていただきました。御法座の日は、始まる一時間前にお寺から鐘の音が聞こえてきます。鐘の音が聞こえると、母は、いそいそとお寺参りの準備を始めていました。それは、母の母、私の祖母が、母に子どもの頃から教えていたことだったそうです。『お寺から聞こえる鐘の音は、お寺に参りなさいとの如来様からのお誘いですから、準備しなさい』と、祖母からいつも教えられていたことを、母から聞かされていました。母は、年老いても、祖母から教えられていたことを大切にしていたのです。」
お寺には、鐘と呼ばれるものが、二つあります。集会鐘(しゅうえしょう)と喚鐘(かんしょう)です。集会鐘というのが、除夜の鐘でもお馴染みの、大きな釣り鐘のことです。通称、梵鐘ともいいます。喚鐘というのは、本堂の外廊下に吊るされている小さな釣り鐘のことです。これらの鐘は、多くの人々に、これからお寺でお経が響き、仏様のみ教えが説かれることを知らせるためにあるのです。まず、法要の始まる一時間前に大きな集会鐘が、ゆっくりと十回打ち鳴らされます。大きな集会鐘は、余韻を残しながら大きく長く響きます。風向きにもよりますが、正法寺の集会鐘は、半径約二キロメートル四方にわたり、響いているのではないでしょうか。これは、一時間後にお寺で法要が勤まり、温かい仏様のお心が、これから一人一人のために説かれることを知らせているのです。そして、法要の始まる直前に、本堂の脇に吊るされている小さな喚鐘が、打ち上げ打ち下ろしを含む独特の間で、激しく打ち鳴らされます。この鐘の音は、遠くまでは響きませんが、山門付近や台所など、お寺の中にいて、本堂にまだ座っていない人々に対して、いよいよこれから法要が始まることと、急いで本堂に座るよう、知らせる意味もあるのです。
最近、よく耳にするようになった話の中に、都会では、お寺の鐘が撞けなくなっているというものがあります。お寺の周りに住む人々が、お寺の鐘の音を騒音として聞いている現実があるからです。近年、人の心を安らげる音の中に、「f分の1の揺らぎ」という独特の揺らぎが含まれていることが明らかにされています。小川のせせらぎや小鳥のさえずりと共に、お寺の鐘の音の響きの中にも、それが含まれていることが証明されているそうです。本来、お寺の鐘の音は、人々の心に安らぎをもたらすものであり、心にストレスを与える騒音とは異なる響きなのです。にもかかわらず、それを騒音と受け止めてしまうのは、その人が、非常に貧しい心根をもっている現実を表しています。
音の響きというのは、聞く人の心によって様々に意味が異なってくるものです。お念仏を生涯、大変喜ばれた妙好人の浅原才市さんが残された詩の中に、お寺の鐘に関するこんな詩があります。
「わたしゃしやわせ よい耳もろた
ごんとなったる鐘の音
親のきたれのごさいそく
浄土へやろをの 親のさいそく」
如来様のみ言葉を、ありがたく、たのしく聞かせていただける心の耳を開いてもらった私は、本当に幸せ者だというのです。そして、ゴーンと響き渡るお寺の鐘の音を、「御法座が勤まるぞ、お寺に参って来いよ、お前をお浄土へ連れて帰る真実の親がいることに気づいてくれよ」と、私に呼びかけ勧めてくださる如来様のみ言葉として聞き喜んでおられるのです。
同じ鐘の音の中に、騒音を聞く人もいれば、如来様のみ言葉を聞く人もいます。これは、音を受け止める心に大きな違いがあるからでしょう。浅原才市さんが、「よい耳もろた」と喜んでおられるように、鐘の音の中に如来様のみ言葉を聞いていくような豊かな心は、自分が努力して作り出していけるものではありません。やはり、如来様から頂いていくものだと思います。仏様が教えてくださる大切な事柄を、いつも、人ごとではなく私のこととして真剣に求め聞いていく中に、いつの間にか、心の耳が育てられていくものなのでしょう。
考えてみると、本来、騒音でないものを騒音として聞いてしまう耳があるというのは、痛ましいことです。都会において、痛ましい人々が増えている中にあって、ほんの一昔前、正法寺の鐘の音の中に、如来様の御心を聞いていた人々が確かにおられたことは、大変ありがたいことです。お寺から聞こえる鐘の音も、一日の中で大切にさせていただきましょう。
(令和元年10月1日)