先日、ある御門徒の五十回忌のご法事で、大変ありがたい一言をいただきましたので、ご紹介します。
それは、お勤めとご法話が済み、ご親戚の方々が、順にお焼香をされている時でした。
「ご院家さん、今日は、ありがとうございました。私は、故人の孫になりますが、お婆ちゃんには本当にお世話になりました。私は、外孫でしたが、お婆ちゃんのことが大好きで、よくこの家に遊びに来ていました。本当にやさしくて仏様のようなお婆ちゃんでした。私が、遊びに来ると、最初にお仏壇にお参りさせられて、仏様のお話を色々聞かせてくれました。」
等々、子ども時代、故人に大変お世話になったことや、故人との温かい思い出話を色々とお話してくださいました。
そして、最後に一言、次のようにお話されたのです。
「お婆ちゃんには、本当にお世話になりましたが、今日も、お婆ちゃんのお陰で、本当にありがたいご縁に遇わせて頂けました。」
私は、この一言を頂いたとき、お会いしたこともない五十回忌を迎える故人の方に、思わず手を合わさずにはおれない気持ちになりました。
五十年前にこの世との縁が尽きたその人の命は、お浄土の風となって、そのお孫さんの命の上に生き生きと働き続けておられることが、はっきりと味わうことができます。
私達は、ご法事を勤める場合、ほとんどが「故人のために勤める法事」と考えがちです。ご法事のご挨拶で、一番多いのが、「故人のためにありがたいお勤めをしていただき、ありがとうございます。」というものでしょう。しかし、よく考えてみると、これはおかしなことです。お経というのは、簡単に言えば、お釈迦様のお説教をまとめたものです。お釈迦様は、死者に対して教えを説かれたのでしょうか。そんなはずはありません。お釈迦様は、今ここに生きて、道を求める者に対して、教えを説かれたのです。死者に対してだけ説かれたものであるならば、二千五百年間も仏教のみ教えが、多くの人々の心と命を支えてきた事実をどのように考えればよいのでしょうか。お経というのは、私のためにお釈迦様が説いてくださり、私のために多くの先人の方々が伝え遺してくださったものでしょう。お経は、誰かのためにあげるものではなく、私自身が聞かせていただくものなのです。
しかし、現代に生きる我々にとって、二千五百年前に説かれたお経は、一般的には非常に難解でただの呪文のようにしか聞こえません。それ故に、難解なお経の心を取り次ぐ僧侶とそれを聞かせていただく場としてのお寺があるのです。
「お婆ちゃんのお陰で、、、、」と申されたお孫さんは、おそらく、そのお婆ちゃんを通じて、仏様の心に出会い、生涯を通じて、お寺に参り、お取次ぎを聞いてこられたのでしょう。五十回忌に至るまでの節目節目のご法事で、「お婆ちゃんのお陰で、今日もありがたいご縁に遇わせて頂けた」とお婆ちゃんに手を合わし続けてこられたに違いありません。
私達も、やがてこの娑婆世界の縁が尽きていく時が必ずやってきます。その時、子どもや孫が、私をご縁にして仏法に遇えたことを慶び、お浄土という同じお悟りの世界に向かって生きてきてくれれば、これほどの安心はありません。地位や名誉や財産を残せば、争いが起こります。仏法を残せば、豊かな命が生まれます。
五十年過ぎても、仏事と共に偲ばれ、手を合わしたくなるような方は、きっとお浄土に往生され、仏様となった方でしょう。