「お花が痛いよ~」(はっとする感動と反省の日々)

先々月の終わり頃のことです。真っ赤な椿の花が地面一面に落ちている道を、二歳になる息子を抱きながら歩いていました。地面一面に広がる真っ赤な椿の花は、とても美しいものでした。その美しさに浸りながら、春の陽気の中、気分をよくして悠々と歩いていた時です。私の胸に抱かれていた二歳の息子が、覚えたての片言の日本語で、次のように私に話しかけたのです。

「お花が痛いよ~」

息子の不意の一言に、はっと胸が詰まりそうになりました。
私の目には、ただ美しい花のジュウタンが映っていました。しかし、花そのものの立場からすれば、無造作に足で踏まれていく無残な光景が広がっているだけであることを、息子の不意の一言によって知らされたのでした。

浄土真宗の第五祖に数えられる中国の善導大師(ぜんどうだいし)は、「学仏大悲心(仏の大悲心を学ぶ)」ということをお示しになっておられます。これは、仏教には数万の経典、そして、それらの経典に基づく数多くの御宗旨が存在するけれども、結局のところ、仏教を学ぶということは、仏の大悲心を学ぶことに尽きるんだということを、端的にお示し下さった言葉です。
「大悲心」とは、正確には「大慈悲心」のことです。「慈」とは、純粋な友愛を表す言葉ですが、これは、純粋に相手の幸せを願い、相手の幸せのためならどんなことでもさせていただきます。そして、それに対して、一切お返しを求めたり、それを期待することはありません。という心です。「悲」というのは、痛みの共感を表す言葉ですが、人の悲しみを共に悲しみ、人の痛みを共に痛む心をいいます。お釈迦様が教えられたのは、念仏であれ、禅であれ、題目であれ、結局のところ、人の痛みや人の悲しみを共感し、そして、その人の幸せを心から願い、人の幸せのためだけに自分の身を差し出せる人になりなさいということなのです。そして、「慈悲心」の上につく「大」という字は、特定の人ではなく、あらゆる命の上に慈悲の心を持って働くことが出来ることを表しています。仏教では、単なる慈悲心ではなく、この大慈悲心を完成されている方を仏とお呼びしているのです。仏とは、決して、亡くなった人の代名詞ではないのです。
「人の痛みが分かる心」というのは、言葉で説明するのは簡単ですが、実際には、なかなか持つことの出来ない心です。せいぜい私どもに分かるのは、親子・夫婦・兄弟・孫など、言葉を交わす身近な人に限定されます。親鸞聖人は、ご自身のことを「小慈、小悲も無き身にて、、、」と述懐されておられますが、身近な人の痛みも共感し尽せないのが、私ども凡夫の姿なのでしょう。まして、人以外の多くの命に対して、慈悲の心でもって接していくことは、まさしく、仏のみが為せる業というべきです。

そもそも「いのち」というものは、この慈悲の心でもって接すること以外に、実感することができないものなのです。頭で理知的に捉えようとしても捉えられないのが「いのち」です。それ故、「いのち」を言葉で説明することはできません。ただ漠然と感じることだけが出来る不思議な言葉が「いのち」です。相手の痛みが自分の痛みとして響いてくるとき、はじめて「いのち」と「いのち」とが、一体感をもって響き合えるのでしょう。慈悲というのは、そのような「いのち」の一体感を表すものなのです。
子どもというのは、まだ、人としての我が、完全に完成していない清らかな時期でもあります。「私が、、、」という強い我の意識がない故に、花の命と一体になって花の痛みを直感することができたのでしょう。私どもにも、そのような清らかな時期があったのかもしれません。しかし、人が感じる「いのち」の直感は、稲妻のように一瞬で消えてしまいます。やがて、「私が、、、」という強い我に振り回され、自他共に傷つけながら、「私が死ぬ」という我に固執する意識の中で虚しく生涯を閉じていくのでしょう。

阿弥陀如来の大悲は、小慈小悲さえも見失いがちな危ない私の足取りを支え、この私に大悲の世界を知らしめていく尊い働きです。息子の一言も、阿弥陀如来の大悲の働きかもしれません。仏の心に常に呼び覚まされながら、はっとする感動と反省の日々を送りたいものです。

2008年5月1日