「故人の死が無駄にならない」このことを大切に出来る仏事

ご法事などにお参りさせて頂いた時、心底、ありがたいご法事だなと味わえるのは、住職のお勤めが上手く出来たときでも、ご法話が分かりやすく話せた時でもありません。それは、住職の後ろからお念仏の声が響いてきた時です。逆に、後ろは静まり返って、ただ住職の念仏の声だけが響いているご法事は、なんとも寂しいものです。

先日、ある御門徒の七日参りのお勤めに、二軒参らせていただくことがありました。一軒は、故人の息子さんが、もう一軒は故人の奥様が後ろについてお参りされました。どちらの方も、これまで、あまりお寺にご縁のなかった方です。しかし、二軒とも、後ろから「ナマンダブツ、ナマンダブツ・・・」と住職のお念仏の声に合わせて、ありがたい声が響いていました。故人が尊いご縁となって、お念仏の響きが有縁の方々の口から流れ出ることは、大変、感動すべきことです。如来様のお慈悲の真っ只中で、この私の命が育まれていることを、改めて、ありがたく味わせていただいたことでした。

浄土真宗の教えを表す特徴的な言葉の一つに「他力」というものがあります。一般的な国語辞典を引きますと次のように説明してあります。

①阿弥陀如来の力により成仏することをねがうこと。
②自分は努力しないで、他人の助力をまつこと。

 ほとんどの場合、社会全般では②の意味で使われていることが多いことと思います。しかし、①の意味も親鸞聖人が示された「他力」の意味を充分に説明しているとはいえません。天才が残した言葉には、私どもが考える以上に、深淵な意味がこもっているものです。
浄土真宗をよく理解していない人から、よく聞かされる言葉があります。それは、「浄土真宗は自分で修行もせず、仏様に任せて好きなことができる宗教ですね。」といった類のものです。確かに、浄土真宗では、一人山に籠り厳しい戒律を保つような仏道修行はしません。しかし、浄土真宗でもお念仏を称え、お経を読誦し、仏に礼拝します。修行とは、分かりやすく言えば「行う」ということですが、浄土真宗でも仏に近づく行いをしているのです。ただ、浄土真宗の場合、その行いを、私の上で如来が働いている姿として味わうのです。

本来、私共、人間境涯に身を置くものは、必ず自分を拠り所として生きています。意識をしなくとも、必ず自分の思いはからいを正しいものとして受け止めているはずです。多くの人々は、仏法を受け入れてはいません。それは、お釈迦様の時代でも同じです。お釈迦様に出会った人々全員が、次々に仏弟子に変わったわけではありません。中には、受け入れないばかりか、提婆のように、お釈迦様に憎しみを抱き、命を狙う者もいたのです。本来、私共は、仏の教えを聞き、お念仏を称え礼拝するということを、絶対にするはずのない者なのです。私共は、そんな殊勝なものではありません。如来様に手を合わせないのが、人間としての普通の姿なのです。
しかし、絶対に如来様に手を合わせるはずのない私が、如来のみ名を称え、合掌礼拝しているということは、私をそのような殊勝なものに変える力が、私の上に厳然と働いているという証拠でもあります。阿弥陀如来の救いとは、死んでから私を浄土に連れていくことではありません。絶対に真実に向くはずのないものを真実に向かわせ、絶対に浄土に生まれるはずのないものを、浄土に生まれるにふさわしい身に育てていくのが、阿弥陀如来の他力の救いなのです。一人山に籠って行う仏道修行に比べれば、口にナマンダブツと称えることは、厳しさの上からは劣ったものです。しかし、お念仏は、如来が私の上で行っている、阿弥陀如来の慈悲の働きそのものです。どんな高僧にも行うことの出来ない、清浄無垢な温かい如来の行いなのです。

これまで、お念仏を口にしたことのない人が、大切な方との死の別れをきっかけに、その口からお念仏が流れ出ることは、死が新しい命を吹き込んだとも言えます。それは、亡くなった方が、命がけで阿弥陀様のお慈悲を取り次いでくださったのです。故人の死が無駄にならない、このことを大切に出来る仏事を勤めたいものです。

2008年8月1日