先々月、お盆参りでのことです。ある御門徒宅にお参りさせて頂いた時、ご主人から、次のようなお話を頂きました。
「ご院家さん、私は、この『御文章』をよく拝読させていただいておりますが、その中でも「信心獲得章」が一番ありがたく感じます。特に「されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を・・・」のくだりを聞かせていただきますと、胸が熱くなります。」
現代において、『御文章』をこのように深く味わい拝読されている御門徒がおられることに、深い感動を覚えたことでした。
『御文章』というのは、本願寺第八代御門主であり、浄土真宗中興の祖と讃えられる蓮如上人が、御門徒のご教化のためにお書きくださったお手紙のことです。五百年が経過した今では、『御文章』の言葉も大変難しく分かり難いものになってしまいましたが、蓮如上人の御在世当時は、この『御文章』は、人々に大変な影響力を与えたものだったのです。親鸞聖人という方は、千年に一人出るかどうかの独創的な天才です。二千年の仏教の歴史の中において、燦然と輝く歴史的功績を残されました。しかし、それほどの天才であるが故に、その言葉は、非常に独創的で難解なものです。親鸞聖人がお書きになった書物は、一流の仏教学者であっても、一度読んで分かるという類のものではありません。まして、一般庶民においては、手のつけようのないものでしょう。それを、誰にでも分かる平易な言葉を使い、親鸞聖人のお心を万人の心に響かせたのが蓮如上人の大きな功績です。今回、「胸が熱くなります」とお話くださった「信心獲得章」のくだりは、次のものです。
「されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩をのこるところもなく、願力不思議をもって消滅するいわれあるがゆえに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて煩悩を断ぜずして涅槃を得といえるはこのこころなり。」
「無始以来」というのは、始まりのない過去以来ということです。私共は、「自分」というものは、母親から生まれた時に始まり、死ぬときに終わると考えています。しかし、はたして本当にそうでしょうか。誰もが、生まれたときのことは覚えていませんし、自分が自分を作り出したわけではありません。そして、その自分は、まだ死んだことがないのです。死が終わりであるかどうかは、自分が死んでみないことには分かりようがありません。生まれて死んでいくと思っている自分は、実のところ、本当の自分を知る術を持ち合わせてはいないのです。
如来様は、今ここに不安を抱えて凡夫として迷っているということは、始まりのない遠い過去世から罪ばかりを作ってきている姿であることを教えてくださいます。そして、これからも反省もせずにそれを永劫に亘って続けていくのです。私共は、どんな報いを受けても仕方のない命を今生きているということでしょう。
しかし、如来様の願いの働きは、作り重ね続けてきた私共の悪業煩悩を障りとせず、仏の命へと導くというのです。消滅するというのは、無くなるということではなく、障りとしないということです。私共が重ねてきた罪は、決して許されるものではありません。如来であっても、それを許すことはできません。しかし、如来は、罪ばかりを作り、人を傷つけ自らをも傷つけ、どうしようもなく苦しみ続ける私共の深い悲しみを共に悲しみ、共に苦しみながら、この苦難の道を一緒に歩んでくださるのです。私共の悲しみや苦しみは、そのまま如来の悲しみであり苦しみです。人は、誰にも共感してもらえない深い悲しみを知るとき、それに共感する如来の純粋な心に出会っていくのでしょう。
「煩悩を断ぜずして涅槃を得る」ということは、本来、仏教ではあり得ない道理です。阿弥陀如来の願いの働きだけが成しえる不思議です。この不思議に出会っていくことが、人にとっての幸せなのです。不思議に感動できる人は、自分を超えた尊いものに出会っている人です。頭の下がる尊いものに出会える人生でありたいものです。