底が見えないからこそ、お経は、有り難いのです。

あけまして、南無阿弥陀仏。今年も、阿弥陀様のお慈悲の中で、お浄土への歩みを御門徒の皆様と一緒に味わって参りたいと思います。今年も、宜しくお導きいただきますよう、お願い申し上げます。
先日、ある御門徒のご法事で、ご親戚の方と次のようなやり取りをいたしました。

男性A 「ご住職、私は、今年還暦を迎えます。私の家も浄土真宗ですが、子どもの頃は、おばあちゃんに手を引かれて御法座によく参らされたものです。しかし、お寺に参っていたのは、その頃だけで、この歳になって、何にも分からない自分が恥ずかしく思います。お寺に参って、お聴聞していてもさっぱり分かりません。」

男性B 「私も浄土真宗ですが、お経というのは、本当に訳が分かりません。漢字ばかり並べられても意味が通じるはずがありません。お経の現代語訳とかは、ないんですか?」

住職 「ご本山から、お経の現代語訳は出版されていますが、現代語訳を読んでも、お経の意味は分かりませんよ。」

男性B 「現代語訳なら、私にも理解できると思いますが・・・」

住職 「字面は理解できましても、その言葉に込められた深い意味は分からないでしょう。しかし、分からないのが当たり前です。仏様が説かれたものが、すんなり分かったら、それは仏様です。私どもに分からないのは当たり前です。しかし、分からないままで、ご法座に座り続けることが何よりも大切ですよ。その内、阿弥陀様の声が響いてくるときが、必ずやってきます。」

男性A 「うん、そうなんでしょうね。また、お寺に参ります。」

男性B 「う~ん、響いてくる、ですか・・・」

 こういった質問やご意見は、これまで何度かありました。お経は、分かりにくいというのが、一般的な正直な意見でしょう。確かに、全文が漢文で、読み方も、すべて日本語を無視した音読みですから、分かれというほうが無理でしょう。しかし、私は、これが有り難いと思うのです。お経というのは、お釈迦様が、その悟りの内容を、私共、迷える者に伝えるために苦心惨憺され紡ぎだした至極の言葉です。言葉にできない真理の世界を、凡夫に公開するために、あえて言葉にされたのです。それは、凡夫に伝えるための言葉ですが、誰もが理解できるものではありませんでした。インドの龍樹菩薩から始まり、日本の親鸞聖人に至るまでの約千五百年という浄土真宗の歴史は、お経に込められた深い意味を、土に埋まった宝物を大切に掘り出すように、大切に傷つけないように掘り出してきた歴史でもあるのです。お経の言葉を本当に解釈できるのは、何百年に一人の天才だけができる離れ技です。二千五百年という果てしない時をかけて、天才達によって読み続けられてきても、まだ、底が見えないからこそ、お経は、有り難いのです。誰にでも分かるものなら、それはつまらないものです。

妙好人として有名な讃岐の庄松(しょうま)さんは、文字一つ読めなかったと言われています。しかし、お経の中でも一番読みづらいといわれる『大無量寿経』下巻の「五悪段」を開いて、「庄松をたすけるぞよと書いてある」と言われたそうです。まことにみごとな経典の拝読です。蓮如上人の言葉にも次のようなものがあります。

「聖教よみの聖教よまずあり、聖教よまずの聖教よみあり」

知識として文字を解釈できても、仏法が自身の救いとなっていないならば、本当にお経を読んだことにはならないということです。また、逆に、お経の文字を読む力をもたない者であっても、私を抱きとってくださる命の親様がましますと信知し、浄土という帰るべき落ち着き場所がましますと聞いてよろこぶものは、仏様が伝えようとされる真意をその身にいただいているものですから、お経の真髄を読み取っているといえます。大切なのは、お経を頭で理解し、自分のものにしようとすることではなく、阿弥陀様のお慈悲の心をその身に響かせることです。お経に私共、愚者の手垢をつけて汚してはいけません。分からなければ分からないままで、ただ頂き、聞いてゆけばよいのです。そうすれば、必ず阿弥陀様の声が響いてくるときがやってきます。お経が分からないと心配しなくとも、真剣に聞くものは、必ず阿弥陀様に遇わせていただけるのです。阿弥陀様は、ただの木偶の坊ではありません。常に、私共の上に躍動しておられます。私には、何にも分からなくとも、向こうから響いてくるのです。浄土真宗でお聴聞させていただくことが、何よりも大切だといわれるのは、ここに理由があるのです。

今年も、たくさんのご参詣をお待ちしております。ご一緒にお聴聞させていただきましょう。

2009年1月1日